1960年代に「兵士の物語」といえばもっぱらこのLPを指すほど、マルケヴィッチ盤は広く人口に膾炙した。世界じゅうで多くの者がこれを聴いて、初めてこの曲の魅力に目覚めたのだ。
とにかく面白い。いったん聴きだすとやめられないのだ。
語り手 le récitant/ジャン・コクトー Jean Cocteau
悪魔 le diable/ピーター・ユスティノフ Peter Ustinov
兵士 le soldat/ジャン=マリー・フェルテ Jean-Marie Fertey
皇女 le princesse/アンヌ・トニエッティ Anne Tonietti
ヴァイオリン/マヌーグ・パリキアン Manoug Parikian
クラリネット/ユリス・ドレクリューズ Ulysse Delécluse
ファゴット/アンリ・エレールツ Henri Helaerts
トランペット/モーリス・アンドレ Maurice André
トロンボーン/ロラン・シュノルク Roland Schnorkh
コントラバス/ヨアヒム・グート Joachim Gut
打楽器/シャルル・ペシエ Charles Peschier
指揮/イーゴリ・マルケヴィッチ Igor Markevitch
録音/1962年10月4~8日、ヴヴェ(スイス)
Philips L 02.306 L [France]/PHS900‐046 [USA]/SFL-7710 [Japan]
何よりもまず驚かされるのは、「語り手」コクトーの口跡の鮮やかさ、淀みのなさだ。
冒頭の「ダンジュ村からドゥヌジー村へ Entre Denges et Denezy」から「いやはや歩いた、歩いたぞ A marché, a beaucoup marché」 あたりまでを聴いてみてほしい。やすやすと音楽に乗って、なんと楽しげに語っていることか! これが73歳の老人とはとても信じられない。まして、翌年には世を去ってしまう人の声だとは(これはディスクに刻まれたコクトーの最後の肉声なのだ)。
考えてみれば、音楽に合わせて(あるいは競い合って)語るのは、昔からコクトーの得意技だった。聴衆の前でジャズのディスクをかけつつ自作を朗読したのは有名な話だし、ダンスバンドを背後に鳴らしながら朗読したSP録音すら残しているのだ。
悪魔役のユスティノフも負けてはいない。兵士に向かって凄んだり、おもねったり、号令したり、哀願したり、ときには老婆の声色を使ったり、とあの手この手を繰り出す。その巧妙さは悪達者寸前、まさしくdiabolic である。後半、兵士を相手にトランプ賭博をする場面では、白熱した言葉の応酬に、聴いていて手に汗握るほどだ。
台本は基本的にはラミュのオリジナルを踏襲しているが、細部にはいろいろと台詞の変更や書き加えがある(コクトーが加筆したものだろう)。兵士や悪魔の台詞を「語り手」が代読するところも、このレコードではおおむね兵士や悪魔が自ら語るように変更されている。
面白いのは、もとの台本では「だんまり」役だった皇女(パントマイムと踊りのみ)にも、ちゃんと台詞が与えられていること(「語り手」のテクストから流用)。これも視覚を伴わないレコードならではの創意工夫だろう。
マルケヴィッチ率いるアンサンブルの妙技にも舌を巻く。とりわけクラリネットとトランペットが際立っているのは誰の耳にも明らかだろうが、ファゴット、トロンボーン、コントラバス、打楽器も健闘している。この四人はジュネーヴのスイス・ロマンド管弦楽団(アンセルメのオーケストラ)の首席奏者たちだという。
とびきりの声の演技者たちと、ヨーロッパ各地から抜擢した名人上手たち。それを統括するマルケヴィッチの腕前も並々ならぬものがある。この少人数のアンサンブルから、大編成のオペラに匹敵する鮮烈な音色と濃厚な表情を引き出したのだから。
最小の手段で最大の効果。これこそは作曲家ストラヴィンスキーがこのスコアに託した理念だったに違いない。
今日(24日)は昼過ぎから駒場の日本近代文学館で戦前の雑誌をみる。
1925(大正14)年の「アサヒグラフ」と「週刊朝日」をそれぞれ通覧。この年に朝日新聞社が企てた世界初のシベリア横断「訪欧大飛行」についての調査である。欠号もあるので完全ではないが、当時の取材状況があらかた判明した。
4時に文学館を退出して、そのまま徒歩で渋谷へ。円山町のユーロスペースで連続上映「Hosono Theater 細野晴臣の映画音楽堂」。今日はその初日なのだが、上映は夜9:05からなので、まだ時間がたっぷりある。
せっかくなのでこの界隈を散策してみると、百軒店(ひゃっけんだな)という裏路地に、カレー屋の「ムルギー」やロック喫茶「BYG」がいまだに健在なのに軽い衝撃を覚えた。BYGはたしか「はっぴいえんど」が演奏した場所ではなかったか? 東京にも時間が止まったような場所が残っているのだ。
さすがに歩き疲れたので、近くの珈琲屋で休憩しつつ時間をつぶす。
細野さんは少なからぬ映画音楽を手掛けている。にもかかわらず、これまで誰もそのことに言及しておらず、コンピレーション・アルバムも存在しない。「細野晴臣と映画」はいわば盲点だったわけで、今回の連続上映はそのあたりを衝いたユニークにして有益な企てである。
第一日目の上映作品は神代辰巳監督の「宵待草」。1974年、「青春の蹉跌」「赤線玉の井・ぬけられます」に続いて撮られた日活作品である。細野さんにとっては、これが初めての映画音楽だった(演奏はティン・パン・アレー)。
監督/神代辰巳 脚本/長谷川和彦 撮影/姫田真左久
出演/高橋洋子、高岡健二、夏八木勲、青木義朗 ほか
大正時代、二人のアナーキストが富豪の令嬢を誘拐するが、身代金を得られずに、三人で奇妙な逃避行を続ける…というストーリー。時代設定こそ違うが、藤田敏八の「赤い鳥逃げた?」となんだかよく似た展開だ。三人で銀行強盗を敢行するあたりは、日本版「ブッチ&サンダンス」か。
30年ほど前に一度観たときは今ひとつピンと来ない映画だったのだが、こうして再見してみて、神代監督のじわじわと粘り強い演出、「行き場を失った」青春を描ききる執念に、圧倒される思いがした。これはもうひとつの「青春の蹉跌」だったのだ!
細野さんの音楽は大正時代を意識してか、少々レトロな懐かしい響きがする。この少し前、彼は服部良一メロディの再解釈(雪村いづみ「スーパー・ジェネレーション」1974)と取り組んだので、その余韻が残っていたのかもしれない。
アルバム「トロピカル・ダンディ」所収の「漂流記」や「三時の子守唄」が使用されており、いかにも「使い回し」したような印象だが、実際はこの映画のほうが先で、その翌年「トロピカル・ダンディ」のB面にこれらの曲を流用した、というのが真相らしい。
しつこく対象に肉薄し、体温や息づかいまで伝える神代のスタイルと、冷静でシンプルで優しい細野さんの音楽とは、どう考えてもミスマッチ。でも、奇妙なことに「これでいいのだ」とも感じられる。そこに映画音楽というものの不思議さがあるのだろう。
終映後は佐野史郎さんのトーク。細野さんへの愛着が滲み出たいい話だった。
帰宅したら午前1時。そして今はもう3時近い。「三時の子守唄」を聴きながら眠るとしよう。
もはや伝説と化したローザンヌでの世界初演から44年ののち、同じスイスでひとつの画期的な上演が行われた。
1962年10月、モントルー=ヴヴェ国際音楽祭の一環として、風光明媚なスイスの小都市ヴヴェ(Vevey)で「兵士の物語」の公演がもたれたのである。この街で幼年時代を過ごした指揮者イーゴリ・マルケヴィッチが、自らの50回目の誕生日を記念して「ヴヴェへの感謝の念から」企画したものだという。
この機会に馳せ参じたキャストが途方もなく素晴らしい。
「語り手」は詩人のジャン・コクトー。職業柄、朗読はお手のものとはいえ、自作でないテキストのナレーションをよく引き受けたものだと思う。マルケヴィッチとは三十年来の親しい間柄なのだそうだ。
悪魔役はピーター・ユスティノフ。日本ではもっぱら映画での名探偵ポワロ役で知られるが、戦後のイギリス演劇界の大立者。六か国語を自在に操り、映画出演のほか、自ら戯曲を書くという才人である。音楽好きなら、彼が「象のババール」のディスクで巧みなナレーションを務めているのをご存知だろう。
そのうえ、マルケヴィッチのもとに集った奏者の顔ぶれがまた凄い。
ヴァイオリンのマヌーグ・パリキアンはロンドンのフィルハーモニア管弦楽団のコンサートマスター。フルトヴェングラーやクレンペラーの信頼厚かった名手である。
クラリネットのユリス・ドレクリューズは戦前から名高いフランスきっての達人。
トランペットのモーリス・アンドレについては説明不要だろう。このとき弱冠29歳。
1962年10月の演奏会はさぞかし壮観だったろう。想像するだけでもわくわくする。
いや、想像するには及ばないのである。このとき、全く同じ顔ぶれでレコーディングがなされたのだから。
この稀有の機会を捉えてオランダのフィリップス社がヴヴェで出張録音を敢行した。
レコードとは文字どおり「記録」の意味であるが、このようにして歴史的瞬間は記録され、ディスクに刻まれて全世界へと伝えられたのだ。
1918年9月28日、ローザンヌ市立劇場で「兵士の物語」は初演された。
この歴史的な企てにかかわったスタッフ、キャストは以下のとおりである。
台本/シャルル=フェルディナン・ラミュ
作曲/イーゴリ・ストラヴィンスキー
装置・衣裳/ルネ・オーベルジョノワ
演出/ジョルジュ&リュドミラ・ピトエフ
指揮/エルネスト・アンセルメ
語り手/エリー・ガニュバン
兵士/ガブリエル・ロセ
悪魔/ジャン・ヴィラール(通称ジル)およびジョルジュ・ピトエフ [マイムのみ]
皇女/リュドミラ・ピトエフ [マイムのみ]
演出と出演の二役を務めたピトエフ夫妻は亡命ロシア人。のちにパリに進出し、ヴィユ・コロンビエ座を拠点として活躍することになるが、当時はまだ無名同然で、ジュネーヴでひっそりと暮らしていた。
アンセルメはストラヴィンスキーが最も信頼を寄せていたスイスの指揮者。そもそもラミュとストラヴィンスキーを引き合わせたのはこのアンセルメだった。
奏者たちは、チューリヒやジュネーヴからアンセルメが招集した腕利き揃い。
舞台美術を担当したオーベルジョノワはスイスの画家で、ラミュの親友。
「語り手」と、台詞のある兵士役と悪魔役とは、ローザンヌ大学の教師と学生のなかから適任者を探してきたという。
ラミュもストラヴィンスキーも、当初は「旅回りの田舎芝居」としてスイス各地を巡業する形を願ったのだが、結局その夢は叶わず、芸術愛好家の富豪ヴェルナー・ラインハルトの力添えで、大都会の「立派な」劇場での初演と相成ったのである。
舞台の中央には、いかにもドサ回りの一座といった風情のテント小屋があり、芝居はもっぱらここで繰り広げられる。
この劇場にはオーケストラ用のピットも備わっていたのだが、指揮者と七人の奏者たちはあえてここには入らず、舞台の下手(向かって左方)に陣取った。「音楽を理解するには演奏家の動く姿を観るのが不可欠」とするストラヴィンスキーの主張が通った形である。そして上手には、物語をつかさどる「語り手」が位置する。ただし、彼は芝居の進行に応じて、舞台のあちこちへと移動したらしい。
1918年という年代を考えるならば、この上演形態はすこぶる新奇なものだったはずだ。「赤テント」「黒テント」はいうに及ばず、メイエルホリドの演劇理論もブレヒトの異化効果もまだ存在しない時期に、これだけの大胆不敵な実験が試みられたことに、驚きを禁じえない。
かかわった当事者たちは後年、この公演は「成功だった」と異口同音に回想する。客席は着飾った招待客の紳士淑女たちで埋まり、そこそこの拍手喝采が巻き起こったのだという。本当にそうだったのか? 戸惑いや反撥はなかったのだろうか?
前述したように、ラミュとストラヴィンスキーは、このローザンヌ初演の「成功」をバネに、一座とともにスイス各地の劇場を巡業して回る心づもりだったのだが、折悪しくヨーロッパを襲ったスペイン風邪の大流行がそれを不可能にした。ささやかな「旅回り興行」の企ては、はかなくも、たった一晩の夢と消えてしまったのである。
今日は午前中に江古田まで出向く用事があったので、その足で同じ西武池袋線の富士見台へ。
この富士見台には10年前に千葉へ越してくるまで15年間以上も住んだので、駅前に降りたつと、「帰ってきた」という感じが今でもする。懐かしい街なのだ。
ここに寄り道したのは「香菜軒」という美味しいカレー屋さんがあるからだ。今日の昼飯は久しぶりにこの店で食べよう!
12時の開店と同時に入って、さっそく白ワインとラタトゥイユ、無添加ソーセージの盛り合わせ、人参の冷製ポタージュを注文。どれもたいそう美味。この店では食材の吟味にいつも心を配っているので、野菜も肉も驚くほどナチュラルで新鮮。付け合わせのサラダも、ジャガイモや大根の旨いことといったら! しっかりと噛みしめながらいただく。
香菜軒のことを「カレー屋」と呼ぶのはためらわれる。メインのカレーに行き着くまでの前菜が、あまりにも素晴らしいからだ。今日はこのあと、鶏肉とヒヨコ豆のカレー、鰹とキャベツのカレーを注文。どちらもマイルドで具材の味がじっくり味わえた。そして締めくくりはガトーショコラとチャイ。
二人してかいがいしく働く三浦夫妻にお目にかかるのも、ここに出掛ける大きな楽しみだ。
また近々お邪魔することにしよう。
それにしても、昼下がりの電車のなか、赤い顔で酩酊しているのがちょっと恥かしかった。