1914年に始まった第一次大戦は、ストラヴィンスキーを取り巻く状況を一変させた。
無名の青年作曲家の才能をいち早く見抜き、「火の鳥」(1910)に始まる傑作バレエをつぎつぎに委嘱・上演してきたディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)は、戦火の迫るヨーロッパ諸都市での公演をとりやめ、アメリカと南米での旅興行にからくも活路を見出していた。
ヨーロッパを震撼させた「春の祭典」初演(1913)、いささか不発気味の歌劇「ナイチンゲール」初演(1914)を最後に、ストラヴィンスキーの新作の上演はぱったり途絶えてしまう。おまけに、これまでのバレエの独占上演権を握っていたディアギレフは、ストラヴィンスキーへの著作権料の支払いを渋ったから、ストラヴィンスキーの生活はたちまち逼迫した。そこに追い討ちをかけたのが、1917年のロシア革命(十月革命)の勃発である。彼は故国に残した家作財産のすべてを失い、文字どおり故郷喪失者となったのである。
この時期、スイスの田舎町でひっそりと暮らすストラヴィンスキーの無聊を慰めたのが、詩人・作家のシャルル=フェルディナン・ラミュ(Charles-Ferdinand Ramuz 1878-1947)だった。二人は国籍はもとより、性格も気質も、芸術家としての志向も異なっていたが、どこかウマが合ったのだろう、互いに訪問しあっては、いつしか共同制作を夢見るようになる。
二人の間には一冊のロシア語の書物が置かれていた。アファナーシエフの『ロシア民話集』(1855-63)。ストラヴィンスキーが故国で買い求めてきたものだ。640篇もの昔話を収めたこの大冊は、ロシア口承文学の精華として知る人ぞ知る名著。そういえば、ストラヴィンスキーの出世作「火の鳥」も、そのプロットはアファナーシエフの民話をアレンジしたものだ。この民話集から一篇を選んで、それをもとに何か上演用の台本をこしらえようというのが、二人の目論見なのである。
「これにしよう!」。両者の意見が一致した。「脱走兵と悪魔」と題された民話がそれである。
私たちに最も身近なアファナーシエフの『ロシア民話集』は、中村喜和さん編訳の岩波文庫版(上下2冊/1987)だが、肝心のこの一篇が含まれていないので、大正末に出た中村白葉の巧みな日本語訳(『世界童話大系 露西亜童話集(一)』近代社、1924)を援用しながら、その粗筋を紹介してみよう。ただし、仮名遣いは改めさせていただく。
一人の兵士が休暇を貰って、故郷の村をめざす。小休止のため小川のほとりに腰をおろし、おもむろにヴァイオリンを取り出す。
…兵士は小川の傍に坐って、ヴァイオリンを弾き始めました。
不意に、老人の姿をした悪魔が、本を片手に持って、兵士の方へ近づいて来ました。
『今日は、兵隊さん!』
『やあ、今日は、よいおじいさん!』
兵士がよいおじいさんと言ったので、悪魔は一寸顔を顰めました。
『ねえ、兵隊さん! 一つ交換しようじゃありませんか? お前さんのヴァイオリンと、わたしの本とを!』
『常談言っちゃいけない。おじいさん! そんな本を僕が貰って何になるものか? 僕は十年宮仕えをしていたので、学問をしなかった。だから、そんな本を貰った処で何にもならない』
『そんな心配はいらないよ、兵隊さん! この本は誰が読んでも分るのだから!』
『じゃ、一つ試めして見よう!』
兵士は本を手に取って、開いて見ました。すると、小さい時から学問した人のように、すらすらと読めました。兵士はすっかり嬉しくなって来ました。で、直ぐヴァイオリンと交換しました。
悪魔はヴァイオリンを取上げて、弓を動かし始めましたが、てんで調子の合った音が出ません。
『ねえ、兵隊さん!』と、悪魔は兵士を呼びかけました。『二三日わしの処で泊って行って呉れぬか? ヴァイオリンの弾き方が教えて貰い度いから、お礼はどっさりするよ!』
どうです? だんだん面白くなってきたでしょう。
この続きは、また明日。
昨日の岩城宏之の死はじわじわと、ボディブロウのように効いてきた。
今朝の読売新聞には、古くからの盟友である作曲家・指揮者の外山雄三さんによる、心のこもった追悼の辞が載っていた。それを読むにつけ、なんともいえぬ喪失感がつのってきた。
岩城宏之73歳、小澤征爾71歳、若杉弘70歳。彼らの颯爽たる指揮姿と三十数年前に出逢ったまま、いつまでも若々しいと思っていた三羽烏が、もうそんなお歳だなんて。その一郭が崩れたのだから、今まさに一時代が終わろうとしている、との感慨を抱いても、さして大袈裟ではないはずだ。
拙宅にある岩城のディスクは古いLPがほとんどで、もう長いこと聴いていない。
唯一の例外がストラヴィンスキーの「兵士の物語」。作曲家が「読まれ、演じられ、踊られる」と副題をつけた、朗読つきの舞台作品。その初めての日本語版LP(1972年発売)の覆刻CDが手元にある。岩城がN響メンバーのアンサンブルを指揮し、能楽師の観世寿夫・栄夫兄弟が朗読を務めたものだ。
ちょうどよい、今夜はこれを聴くことにしよう。
キング秘蔵名盤シリーズ
ストラヴィンスキー「兵士の物語」(日本語版)
脚色・演出 観世栄夫
ナレーション 観世栄夫、観世寿夫
指揮 岩城宏之
演奏 田中千香士(vn)、田中雅彦(cb)、内山 洋(cl)、山畑 馨(fg)、
北村源三(tp)、伊藤 清(tb)、有賀誠門(per)
録音 1971年3月、キングレコード第1スタジオ
(キングレコード KICC254)1998年発売
これがどんなに画期的な演奏だったか。そのことについては明日書くとしよう。
どこにも出歩かず、平穏に自宅で過ごす一日も悪くない。先週は用事で外出することが多く、おまけに週末はトークショーまであって、やはり疲れが溜まっていたようだ。
先週はるばるオーストラリアから届いたCDを一枚ずつ聴きながら、メールに目を通し、ゆっくり返事を書く。豪州生まれのソプラノ歌手イヴォンヌ・ケニー Yvonne Kenny がとても良い。
彼女はレパートリーが滅法広いらしく、ヘンデルのオペラ・アリア集での清々しい歌唱も心地よいが、「愛唱曲集」というのか、英国民謡からブラームス、グリーグ、さらにはノエル・カワード、リチャード・ロジャーズまで集めた一枚「Something Beautiful」も、愛情を込め丁寧に歌われ好感がもてる。「何でも器用にこなす」とは日本では褒め言葉になりにくいが、英語でいうところの versatile な才能はもっと称賛さるべきではないか。
まだまだ時間がたっぷりあるので、お次は豪州キャストによるモンテヴェルディの歌劇「オルフェオ」と行こうか。そうだ、ちびちび読み進めてきた亡命ロシア人作曲家ニコラス・ナボコフの回想録も、残り半分を終わらせてしまおう。プロコフィエフとの交遊が語られるはずなので楽しみだ。
とここまで書いたところで、指揮者の岩城宏之さんの訃報が入った。昨年の大晦日もベートーヴェンの交響曲全曲一晩演奏にチャレンジするなど、元気そうにされていたのだが…。驚いた。やはり癌だったそうだ。享年73。
このところずっとご無沙汰だったが、クラシックを聴き始めた当初は、彼がNHK響やバンベルク響を振る姿をTVで親しんだし、生演奏も何度か聴く機会があった。
内幸町の旧NHKホール(取り壊されて今はない)で公開録画があり、ヒンデミットの「白鳥を焼く男」(ヴィオラの今井信子さんのデビューだったと思う)とチャイコフスキーの第五交響曲を無料で聴いた(1969年12月)。大昔の出来事なのに、まるで昨日のことのようだ。汗だくになって熱演する岩城さんの姿が目に浮かぶ。
その後、岩城さんはオーストラリアのメルボルン交響楽団の常任指揮者となり、永くその育成に努められた。CD録音もいくつかある(武満徹の作品集は名演)。今日ずっと朝から豪州のCDを聴いていたのも、なんだか不思議な暗合に思えてきた。ご冥福をお祈りする。
西荻窪でのトーク・イヴェントから帰宅したら午前1時。日付が改まってしまったが、気持ちのうえではまだ11日が続いている。
今日(11日)のトークは「誰も知らなかったロシア絵本~僕のコレクション事始」と題した手前、どうしても絵本をめぐる「自分史」を語る内容になってしまった。おのれ自身のことを客観的に分析してしゃべるのは至難のワザで、はたして聴くに値する内容だったかどうか。なんとも心もとない。
Part 1 絵本とともに暮らした50年
Part 2 日本にもたらされたロシア絵本 1927-1936
Part 3 日本ブームに沸くモスクワ 1925-1929
こんな三部構成で休憩を挟んで2時間40分。2時間の予定を大幅に上回ってしまったが、最後まで熱心に聴いて下さった皆さんには、篤く御礼申し上げる。もし退屈なトークだったらゴメンナサイ。
参加者の方々はおおむね中央線沿線にお住まいとのことだが、なかにはわざわざ札幌(!)から聴きに来られたという女性もおられ、こちらとしては感激するやら申しわけないやら。交通費・宿泊費が無駄にならないといいのだが。
ともあれ、小生のためにこうした機会を設けていただき、手弁当で準備して下さった「西荻ブックマーク」の皆様に、この場を借りて心から感謝します。
これで一仕事が終わった。ぜんぜん疲れはしなかったが、今はもう2時近い。さすがに眠たくなってきた。
今日も東京へ出掛けた。神谷町の日本近代音楽館でマイクロフィルムを閲覧(とても疲れる作業で、2時間が限度)したあと、六本木経由でてくてく表参道まで歩いて青山学院大へ。ここで3時から「来日ロシア人研究会」の例会があるのだ。誰でも参加できるくつろいだ集いなので、可能な限り足を運ぶようにしている。今日の発表は次の二つ。
1)「日本滞在時のプロコフィエフ」
発表:エレオノーラ・サーブリナさん
2)「オリガ・サファイアの来日とその意義」
発表:佐藤俊子さん
どちらも小生の年来の興味とピタリ合致するテーマなので、万障繰り合わせて出席することにした。
新進作曲家セルゲイ・プロコフィエフ(27歳)はロシア革命直後の1918年、アメリカへ赴く途上、日本に2か月ほど滞在し、東京と横浜でピアノ・リサイタルを開いてウルトラ・モダンな自作を演奏した。評論家の大田黒元雄(25歳。荻窪の大田黒公園はその邸宅跡)がこのとき彼と親しく交遊し、貴重な記録を残している。小生もかつて、セゾン美術館での「ディアギレフのバレエ・リュス」展カタログで、その意義に少々触れたことがある。
プロコフィエフ没後50年の2003年、彼の浩瀚な日記が出版された。嬉しいことに日本滞在時の記述も含まれており、60日間の足取りや日本での交遊(大田黒のみならず、祗園の芸者まで登場)がつぶさに綴られていたのである。ただし、ロシア語版のみの刊行なので、モスクワ訪問時に勇んで購入したものの、小生にはとても歯が立たない。
ところが篤志の人というのはおられるもので、このプロコフィエフの日本滞在日記をこつこつ日本語に翻訳し、そればかりか全文をHPで公開なさった。今日お話しされるサーブリナさんと、ご友人の豊田さんの共同作業だ。
http://blog.goo.ne.jp/sprkfv/
昨年このサイトをみつけた小生は、「よくぞやって下さった!」という気持ちから、すぐさま称賛の書き込みをしたものである。
今日のサーブリナさんのご報告は、すでにHPで読める日記内容の紹介が主であり、その点では新味に乏しかったが、彼女はこのほか大田黒のプロコフィエフ会見記(『音楽と文学』誌所収)の露訳も済ませ、ロシアの専門誌に発表された由。加えて、滞日中にプロコフィエフが執筆した短篇小説の日本語訳も進んでおり、いずれこれらを一冊にまとめ出版するのが夢だという。実現すれば快挙である。
続いてのご報告は、1936年に日本人外交官の妻として来日したロシア人バレリーナ、オリガ・サファイア(本名ワレンチナ・パーヴロワ? 1907-1981)の生涯と業績をたどるもので、彼女の最後の弟子である佐藤俊子さんの証言は千金の重みをもつ。
革命直後のペトログラード(ペテルブルグ)でバレエを体得し、正統的なロシア・バレエ技法をわが国に伝えたオリガの役割は、これまであまりにも過小評価されてきた。彼女は戦争を挟んだ20年間、もっぱら有楽町の日劇でバレエの指導にあたったほか、映画のダンスシーンの振付も数多く手がけたという。マキノ正博監督の『阿片戦争』(1943)の大掛かりな舞踊場面(先代の猿之助が洋舞を達者にこなす)も彼女の振付だと、今日初めて教えられた。なるほど、そうだったのか!
恩師への愛慕の念に満ちた佐藤俊子さんの言葉には、強く胸を打つものがあった。参考上映された記録映画(佐藤さん監修/わずかだがオリガが踊る場面がある)もきわめて貴重なものである。
というわけで、今日の例会は小生にとって聞き逃すべからざる内容だった。またお邪魔させてもらいます。