(承前)
「兵士の物語」の登場人物はごく小人数。兵士と悪魔、そして皇女の三人だけだ(ただし皇女には台詞なし)。台本作者ラミュはこれに加えて、第四の人物を創造した。「語り手」である。ギリシア悲劇のコロスよろしく、彼は物語を叙述し、登場人物の心理状態をコメントし、ときには台詞を代行したり、舞台上の人物に呼びかけたり…と八面六臂の活躍を繰り広げる。
この語り手がいてくれるお蔭で、「兵士の物語」はほかの役柄(兵士の母親や村人たち、皇帝や廷臣たち etc)を必要としないし、手の込んだ舞台装置も省くことができた。第一次大戦中、大掛かりな舞台上演は事実上不可能だったから、ラミュのこの「発明」はいわば窮余の一策だったともいえるだろう。
ラミュ=ストラヴィンスキーの「兵士の物語」は、元気のよい(というか、少々すっとぼけた)「兵士の行進曲」で始まる。音楽にあわせてフランス語で歌うように語り出すのは、兵士ではなく「語り手」の声である。
ダンジュ村からドゥヌジー村へ
一人の兵士が故郷をめざす
貰った休暇は15日間
思えばずいぶん来たものだ…
いやはや歩いた、歩いたぞ
それでもなかなか行き着かぬ
こんなに歩いてきたのにな…
いきなり出てくるこのダンジュ(Denges)とドゥヌジー(Denezy)とは何なのか。しばしば「架空の地名」と説明されるが、調べてみると実はそうではなく、ラミュとストラヴィンスキーの暮らすスイスのヴォー(Vaux)州に実在する地名らしい。
つまり、このラミュの書いた台本では、兵士は明らかにスイス人と考えられている。
『ストラヴィンスキーの思い出』のなかで、ラミュが「…ロシアの中心部を流れている小川を想定しながら、スイスの小川の岸辺に、毛の背嚢を背負ったあの兵士たちの一人を坐らせ…」(後藤信幸訳)と回想しているのは、このあたりの事情を指す。彼のいう「毛の背嚢を背負った」兵士たちとは、第一次大戦のまっただなかにあった当時(1917~18年)、実際にしばしば目にしたスイスの輜重兵(trainglot)のことなのである。台本をさらに読み進めると、兵士の名は「ジョゼフ Joseph」であることが判明する。「イワン」や「ヨシフ」ではないのだ。ちなみに、元のアファナーシエフの民話「脱走兵と悪魔」の兵士にはそもそも名前がなかった。
ラミュが「むかしむかし、(ロシアの)あるところに」ではなく、これが「たった今、(スイスの)この近くで」実際に起こったかもしれない物語、同時代のアクチュアルな寓話として、「兵士の物語」を構想していたことは明らかだろう。
やがて「語り手」の言葉のなかには、先付け手形だの、一覧払いだの、為替相場だのという資本主義社会ならではの経済用語が飛び出すし、のちに商人となった兵士のもとには、何と「電話」すらかかってくる。「兵士の物語」は、どうみても昔話なんかじゃないのだ!
降りしきる雨のなか、三鷹駅前の商店街を急ぎ足で歩く。今日は夕方から海野弘さんのトークイヴェントがあるのだ。
本を旅する──海野弘が選んだ100冊 [東京篇]トークライヴ
2006年6月18日(日)17:00~
文鳥舎(東京・三鷹)
あのシャイな海野さんが人前でしゃべるなんて! テレビ出演も講演会も一切なさらない方だと承知していたから驚きだ。新著『海野弘 本を旅する』の刊行を記念して、その企画編集を手掛けられた南陀楼綾繁さんと対談されるのだという。
およそ小生の世代の芸術好きで、海野弘さんの本を読んでいない者は皆無だろう。あんなふうに書けたらいいなあ、と憧れた者も少なくないはずだ。かく言う小生もその一人である。
かつて編集者だった時分、たった一回だが、無理にお願いしてエッセイを書いていただいたことがある。美術館時代には、来館された海野さんに二度ほどお目にかかる機会があったが、このところ10年近くご無沙汰してしまった。
会場の文鳥舎は酒場兼イヴェントホールといった趣のスペース。そこに海野さんの蔵書から100冊が選ばれて、壁際の書棚に並んでいる。20世紀の終わりに『リテレール』という雑誌の求めで選出したものだそうだ。開演時間までまだ間があるので、興味深く拝見。そういえば、前記のご著書には、この100冊すべてに海野さんがつけたコメントが収録されていた。
海野さんの話しぶりは昔と全然変わってない。お人柄どおり淡々と飾らない語り口は、まるで一対一で話をうかがっているかのよう。早稲田在学中の思い出、平凡社での編集者時代のさまざまな出逢い、処女出版のいきさつなど、どれも初耳のことばかりで興味津々。
南陀楼さんの巧みなリードもあって、話の展開にも淀みがない。近況として、「ここにきて、自分の書くものがモノローグからダイアローグへと、双方向的なものに変化してきたと感じる」「20世紀とはいったい何であったのか、をぜひ自分なりに書いておきたい」と語られていたのが、とりわけ印象深かった。
19時過ぎからの懇親会にも出席。ちょっとミーハーかなあ、と思いつつ、持参した『美術館感傷紀行』にサインしていただいた。
今日が特別な一日だという理由は、実はもう一つある。
あれは20世紀もいよいよ押し詰まった2000年11月のこと。珍しいロシア・アニメをまとめて上映するイヴェントがあった。小生のお目当ては、ミハイル・ツェハノフスキーの無声アニメ「郵便」(1929)。同タイトルの絵本(1927)をもとに映画化された、ツェハノフスキー監督の出世作にして、ロシア・アニメ勃興期の幻の短篇である。
一通の書留郵便がどこまでも宛て先を追っていき、世界各地の郵便屋さんがてくてく歩いて届けようとする、というストーリー(マルシャーク作)に、ツェハノフスキーがスタイリッシュな挿絵を描いた傑作絵本は、小生もかねてから愛蔵している。上映されるアニメはこの絵本を元に、同じアーティストが物語もキャラクターもそのまま、まるごと映像化したもの。これが日本初上映だという。
その素晴らしさに息を呑んだ。心底たじろいだ。絵が動くというのは凄いことだ! 素朴な「切り絵アニメ」ながら、ダイナミックな運動感、スピード表現は比類がないし、 なによりも絵がアヴァンギャルドな魅力に溢れている。無声映画ならではの字幕の入れ方もリズミカルで、間然とするところなく絶妙。
すっかり打ちのめされて、しばらく椅子から立ち上がれなかった。
このイヴェントを主宰された評論家の山田和夫さんが会場におられたので、一面識もないままに、勇を鼓して「この映画の字幕の日本語訳はどなたが手掛けられたのですか?」と訊ねてみた。「ああ、今日は翻訳した本人がちょうど来ているから」と、その場で研究家・翻訳者の井上徹さんに紹介された。後日、井上さんからは懇切な手紙とともに、映画「郵便」の字幕翻訳の全テキストが届けられた。一観客にすぎない者への行き届いた対応に、涙が出るほど感激したのをよく憶えている。
この出逢いの三年後、ひょんなことから「幻のロシア絵本」展が実現すると決まったとき、小生が真っ先に考えたのは、展覧会の関連企画として「郵便」を上映できないか…ということだった。さっそく井上さんに相談した。あのフィルムは今でも日本にあるのだろうか、と。
2004年の展覧会で芦屋と東京、それぞれ一回ずつではあったが、ツェハノフスキー三本立て上映(「郵便」「バザール」「おろかな子ネズミ」)が実現できたのは、今考えてもまるで夢のような出来事だ。またしても山田さんと井上さんのご尽力のたまものである。お二人は上映会でのトークまでお引き受け下さった。
それだけではない。井上さんは親切にも、ご自身のHPで「幻のロシア絵本」展のことを大々的に取り上げ、その意義を縷々力説して下さったのである。このご恩は決して忘れない。
今日はその「大恩人」井上徹さんの講演の日でもあるのだ。行かなければ!
「吉原治良展」の興奮も冷めやらぬまま竹橋をあとにして、その足で神保町を経由して春日の文京シビックセンターへ。山田和夫さんが主宰される「エイゼンシュテイン・シネクラブ」、第168回例会である。
今日の井上さんの演題は「はじまりのロシア映画~革命前のロシア映画を見る」。
上映機会のきわめて稀な20世紀初頭、黎明期のロシア映画(映画の発明は1895年)がヴィデオ上映とはいえ、井上さんの解説つきで観られるというのだ。
上映作品は次のとおり。
「スペードの女王」1910 ピョートル・チャルジーニン監督
「カメラマンの復讐」1912 ウラジスラフ・スタレーヴィチ監督(人形アニメ)
「降誕祭前夜」1913 ウラジスラフ・スタレーヴィチ監督
「偉大な老人の旅立ち(トルストイの生涯)」1912 ヤーコフ・プロタザーノフ、エリザヴェータ・チーマン監督
「白昼夢」1915 エヴゲーニー・バウエル監督
いずれもニジンスキーの跳躍がヨーロッパを席捲していた頃の映画ということになる。残っているだけでも奇蹟のような作品群。小生に見覚えがあるのは有名な「カメラマンの復讐」くらいだろうか。
さすがに1910年の「スペードの女王」は退屈だ。なにしろ、役者の演技を一方向からロングショットでただ撮っているだけ。アップもミディアムショットも、もちろん切り返しもない。これは当時、どこの国の映画もそうだった。異なるアングルのカットを繋ぐという発想そのものが存在しなかったのだ。この退屈な単調さがいかにも特徴的で、貴重ですらある。
それがどうだろう、わずか5年後の「白昼夢」では、基本的にはロングショット、固定カメラながら、ときおり挿入されるミディアムショットや野外における移動撮影が実に効果的。セットも奥行きが深く、人物の「縦の動き」が意識的に多用される。
死んだ妻のことが忘れられず、よく似た別人を身代わりとして愛する、という主題そのものが、40年後のヒッチコックを先取りしているし、俳優の大仰な演技にもかかわらず、サスペンスフルな緊張を持続させるバウエル監督の映画的手腕は並々ならぬものだ。
井上さんの解説は簡にしてきわめて要を得たもの。上に述べた紹介も、ほとんどが彼からの受け売りである。
ロシア・アヴァンギャルド芸術が登場するためには、帝政末期の「白銀の時代」の文化的爛熟が必要だった、とはよく説かれることだが、エイゼンシュテインの出現に先立って、映画の分野でも相応の成果が蓄積されていたことは、もっと強調されてしかるべきだろう。
それにしても今日は長く充実した、特別な一日であった。
今日は滅多にない特別な一日だった。そのことをぜひ書きたいので、「兵士の物語」の続きはお休みとしよう。
竹橋の東京国立近代美術館で、この13日から「生誕100年記念 吉原治良展」が開かれているが、これに関連して河﨑晃一さんが講演されるというので、ひどく蒸し暑いなか、いそいそと出掛けてみた。
河﨑晃一さんは、小生の盟友にして恩人ともいうべき人物だ。
4年前の2002年、芦屋の美術館に吉原治良旧蔵のロシア絵本が数十冊残されていると知らされて、早速コンタクトして調査を申し入れたら、そこの学芸員だった河﨑さんは快く許可して下さったばかりか、「これで展覧会ができないかなぁ、どうです、一緒にやりませんか?」と気さくに声をかけてくれた。
芦屋で実際に目にした87冊のロシア絵本コレクションは、溜息が出るほど素晴らしかった。だが、それにしてもなぜ、1930年代初頭に、芦屋の地で、吉原治良がロシア絵本を…と疑問が次々に頭をよぎったが、河﨑さんは「それに答えられる友人が一人いる。実は今日呼んであるので、これから一緒に夕飯を食べよう」と、兵庫県立美術館の平井章一さんを紹介して下さった。
吉原治良とその周辺を詳しく調査されている平井さんは、1930年代初め、吉原の年長の友人に小西謙三という画家がいて、ロシアに滞在して絵を学んできたこと、その小西の肝いりで吉原が『スイゾクカン』(1932)という絵本を出していることを縷々ご教示下さったのだ。
一昨年から昨年にかけて、芦屋市立美術博物館を皮切りに、東京都庭園美術館などを巡回した「幻のロシア絵本 1920‐30年代」展で、関西におけるロシア絵本受容の実態をほぼ解明できたのは、ひとえに河﨑さんとその同僚の横山幾子さん、そして兵庫の平井さんの努力のたまものである。小生が河﨑さんのことを「恩人」と呼ぶのはそのためだ。
日本における抽象絵画のパイオニアの一人で、50年代以降は「具体」グループの指導者として世界的に知られている吉原治良(1905‐1972)。その吉原にして、東京で本格的な回顧展が催されるのはこれが最初なのだという。かくいう小生もまとめて作品を観たことがない。ちょっと早めに竹橋に着いたので、講演の前に展示室をざっと一巡しておくことにした。
会場に入ってすぐ、初期の魚をモチーフにした作品のところで、「ロシア絵本」展でも大々的にフィーチャーした吉原の絵本『スイゾクカン』がちゃんとケースに入れて展示されているのが、懐かしいような嬉しいような気分。と、そこで、いきなり河﨑さんに声をかけられた。彼はつい最近、17年間も在籍した芦屋の美術館を去り、兵庫県立美術館に移られた。転職後お会いするのは今日が初めてだ。
挨拶のあと、せっかくなのでしばらく一緒に展示を観ることに。有益なコメントつきとあって、なんだかひどく得したみたいだ。「西欧のモノマネ」と揶揄されることすらある戦前の吉原作品だが、どうしてどうして、足の地に付いた誠実な仕事であることに感動を覚えた。この部分だけでも、今回の展覧会は必見である。
講演会は2時から。タイトルは「吉原治良~具体への道のり~」。
よく知られた戦後の「具体」時代はあえて避けて、20‐30年代の青年期から戦後すぐまでの、「知られざる」吉原に話題を絞ったのは正解だった。芦屋の美術館が遺族から託された資料写真をスライドで示しながら、戦前から晩年までの吉原の錯綜した歩みに、一貫する流れがあることを示唆する、みごとな講演だった。
講演が終わってふと振り返ると、後ろの座席で平井章一さんが微笑んでおられたのでビックリ。彼もこの春、永年勤めた兵庫の美術館を退き、新設予定の新国立美術館(六本木)に移られたのだという。あれだけ地元に根ざした調査研究をされてきた平井さんが、どうして関西を離れる決心をされたのか、ご事情は全くわからぬものの、新天地での今後のご活躍を心からお祈りする。関西ではできなかったことを、ぜひ実現していただきたい。
今日は期せずして「ロシア絵本」展関係の同窓会めいて、感慨ひとしおだった。
(承前)
「脱走兵と悪魔」の物語はもちろん架空のものだが、ロシアの現実をそれなりに映し出している。民衆のほとんどが文盲だったこと(ロシア革命直後でも7割)や、ヴァイオリン(フィドル)が下層階級の間でかなり普及していたこと、などだ。
それはともかくとして、悪魔にヴァイオリンの手ほどきを頼まれた兵士はどうしたか。
悪魔の屋敷でもてなしを受けながら、三日だけヴァイオリンを伝授した兵士は、慌てて故郷の村へと辿りつく。すると、どうだろう。三日間のはずが実は三年の月日が経っていて、休暇の期限が切れた兵士は、お尋ね者の脱走兵となっていた。もう連隊には戻れない。
やむなく兵士は商人に鞍替えし、街に大店を構える。悪魔の力添えで商売は大繁盛、莫大な金銭が面白いように転がり込んだ。だが、兵士はそれもほどなく廃業し、今度は医者になりすまして世界の果ての宮殿へと赴く。そこでは皇帝の姫君が重い病気で臥せっている。これも悪魔のしわざだ。
兵士はここでヴァイオリンを新調し、皇女のかたわらで奏でると、いよいよ悪魔が姿を現す。兵士は知恵比べで悪魔を打ち負かし、したたか痛めつける。降参した悪魔はすごすご退散しながら、こんな捨て台詞を吐く。
『うぬ。たとえ貴様が皇女と結婚しても、俺の手を逃れる事は出来ないぞ! 町から七八里も離れるが最後直ぐに貴様を掴まえて了う!』
兵士はめでたく皇女と結婚し、何不自由なく暮らすが、ふとしたことから禁を犯し、宮殿を離れてしまう。と、そこには悪魔が待ち構えていて、勝ち誇ったように言い放つ。
『おい、何しに来た。俺の言った事を忘れたと見えるな! もうこうなりゃ俺の勝ちだぞ!』
物語はこのあと、運命を悟った兵士が皇女にいとまごいするところで唐突に終わる。
ロシア語を全く解さないラミュのために、ストラヴィンスキーはこの「脱走兵と悪魔」をセンテンスごとにフランス語に訳して聴かせた。ラミュの回想によれば、「ストラヴィンスキーは、私に原文を逐語訳したのだった。それはなにしろ文字通りの逐語訳で、そのためまったく理解しがたいことがよくあった」(C. F. ラミュ『ストラヴィンスキーの思い出』後藤信幸訳、泰流社、1985)。
このあと、ラミュは物語の細部に手を入れ、会話に抑揚とメリハリを加え、登場人物の心理に一貫性をもたせ、行動に合理的な動機づけを施した。一言でいうなら、それは20世紀作家による民話の近代化といえるかもしれない。ある研究者はこの作業を、アファナーシエフ民話の「ラミュ化 Ramuzification」と称している。
例えば、昨日の拙文で引用した兵士と悪魔の出逢いは、こんなふうになる。
悪魔
あんたのヴァイオリンをわしに下され。
兵士
いやだ!
悪魔
売っては下さらんか!
兵士
駄目だね!
悪魔
それなら、この本と交換ではどうかな。
兵士
俺は字が読めないんだ。
悪魔
字が読めないって? それがどうした。この本はな…字が読めんでも、ちゃあんと読める。この本はな、ここだけの話じゃが、ひとりでに読めてしまう。開いただけですっかりわかる。この本はな…宝の蔵じゃぞ。開きさえすれば、出てくる出てくる、株券が! 札束が! 金貨が!
追記)
上に引いたラミュの回想は、実際には「兵士の物語」に先立つ「狐」(1916)の共同作業について述べたものであるが、制作の実態は「兵士」のときもこれとほとんど変わらないと考え、ここに引用した。