もはや伝説と化したローザンヌでの世界初演から44年ののち、同じスイスでひとつの画期的な上演が行われた。
1962年10月、モントルー=ヴヴェ国際音楽祭の一環として、風光明媚なスイスの小都市ヴヴェ(Vevey)で「兵士の物語」の公演がもたれたのである。この街で幼年時代を過ごした指揮者イーゴリ・マルケヴィッチが、自らの50回目の誕生日を記念して「ヴヴェへの感謝の念から」企画したものだという。
この機会に馳せ参じたキャストが途方もなく素晴らしい。
「語り手」は詩人のジャン・コクトー。職業柄、朗読はお手のものとはいえ、自作でないテキストのナレーションをよく引き受けたものだと思う。マルケヴィッチとは三十年来の親しい間柄なのだそうだ。
悪魔役はピーター・ユスティノフ。日本ではもっぱら映画での名探偵ポワロ役で知られるが、戦後のイギリス演劇界の大立者。六か国語を自在に操り、映画出演のほか、自ら戯曲を書くという才人である。音楽好きなら、彼が「象のババール」のディスクで巧みなナレーションを務めているのをご存知だろう。
そのうえ、マルケヴィッチのもとに集った奏者の顔ぶれがまた凄い。
ヴァイオリンのマヌーグ・パリキアンはロンドンのフィルハーモニア管弦楽団のコンサートマスター。フルトヴェングラーやクレンペラーの信頼厚かった名手である。
クラリネットのユリス・ドレクリューズは戦前から名高いフランスきっての達人。
トランペットのモーリス・アンドレについては説明不要だろう。このとき弱冠29歳。
1962年10月の演奏会はさぞかし壮観だったろう。想像するだけでもわくわくする。
いや、想像するには及ばないのである。このとき、全く同じ顔ぶれでレコーディングがなされたのだから。
この稀有の機会を捉えてオランダのフィリップス社がヴヴェで出張録音を敢行した。
レコードとは文字どおり「記録」の意味であるが、このようにして歴史的瞬間は記録され、ディスクに刻まれて全世界へと伝えられたのだ。
1918年9月28日、ローザンヌ市立劇場で「兵士の物語」は初演された。
この歴史的な企てにかかわったスタッフ、キャストは以下のとおりである。
台本/シャルル=フェルディナン・ラミュ
作曲/イーゴリ・ストラヴィンスキー
装置・衣裳/ルネ・オーベルジョノワ
演出/ジョルジュ&リュドミラ・ピトエフ
指揮/エルネスト・アンセルメ
語り手/エリー・ガニュバン
兵士/ガブリエル・ロセ
悪魔/ジャン・ヴィラール(通称ジル)およびジョルジュ・ピトエフ [マイムのみ]
皇女/リュドミラ・ピトエフ [マイムのみ]
演出と出演の二役を務めたピトエフ夫妻は亡命ロシア人。のちにパリに進出し、ヴィユ・コロンビエ座を拠点として活躍することになるが、当時はまだ無名同然で、ジュネーヴでひっそりと暮らしていた。
アンセルメはストラヴィンスキーが最も信頼を寄せていたスイスの指揮者。そもそもラミュとストラヴィンスキーを引き合わせたのはこのアンセルメだった。
奏者たちは、チューリヒやジュネーヴからアンセルメが招集した腕利き揃い。
舞台美術を担当したオーベルジョノワはスイスの画家で、ラミュの親友。
「語り手」と、台詞のある兵士役と悪魔役とは、ローザンヌ大学の教師と学生のなかから適任者を探してきたという。
ラミュもストラヴィンスキーも、当初は「旅回りの田舎芝居」としてスイス各地を巡業する形を願ったのだが、結局その夢は叶わず、芸術愛好家の富豪ヴェルナー・ラインハルトの力添えで、大都会の「立派な」劇場での初演と相成ったのである。
舞台の中央には、いかにもドサ回りの一座といった風情のテント小屋があり、芝居はもっぱらここで繰り広げられる。
この劇場にはオーケストラ用のピットも備わっていたのだが、指揮者と七人の奏者たちはあえてここには入らず、舞台の下手(向かって左方)に陣取った。「音楽を理解するには演奏家の動く姿を観るのが不可欠」とするストラヴィンスキーの主張が通った形である。そして上手には、物語をつかさどる「語り手」が位置する。ただし、彼は芝居の進行に応じて、舞台のあちこちへと移動したらしい。
1918年という年代を考えるならば、この上演形態はすこぶる新奇なものだったはずだ。「赤テント」「黒テント」はいうに及ばず、メイエルホリドの演劇理論もブレヒトの異化効果もまだ存在しない時期に、これだけの大胆不敵な実験が試みられたことに、驚きを禁じえない。
かかわった当事者たちは後年、この公演は「成功だった」と異口同音に回想する。客席は着飾った招待客の紳士淑女たちで埋まり、そこそこの拍手喝采が巻き起こったのだという。本当にそうだったのか? 戸惑いや反撥はなかったのだろうか?
前述したように、ラミュとストラヴィンスキーは、このローザンヌ初演の「成功」をバネに、一座とともにスイス各地の劇場を巡業して回る心づもりだったのだが、折悪しくヨーロッパを襲ったスペイン風邪の大流行がそれを不可能にした。ささやかな「旅回り興行」の企ては、はかなくも、たった一晩の夢と消えてしまったのである。
今日は午前中に江古田まで出向く用事があったので、その足で同じ西武池袋線の富士見台へ。
この富士見台には10年前に千葉へ越してくるまで15年間以上も住んだので、駅前に降りたつと、「帰ってきた」という感じが今でもする。懐かしい街なのだ。
ここに寄り道したのは「香菜軒」という美味しいカレー屋さんがあるからだ。今日の昼飯は久しぶりにこの店で食べよう!
12時の開店と同時に入って、さっそく白ワインとラタトゥイユ、無添加ソーセージの盛り合わせ、人参の冷製ポタージュを注文。どれもたいそう美味。この店では食材の吟味にいつも心を配っているので、野菜も肉も驚くほどナチュラルで新鮮。付け合わせのサラダも、ジャガイモや大根の旨いことといったら! しっかりと噛みしめながらいただく。
香菜軒のことを「カレー屋」と呼ぶのはためらわれる。メインのカレーに行き着くまでの前菜が、あまりにも素晴らしいからだ。今日はこのあと、鶏肉とヒヨコ豆のカレー、鰹とキャベツのカレーを注文。どちらもマイルドで具材の味がじっくり味わえた。そして締めくくりはガトーショコラとチャイ。
二人してかいがいしく働く三浦夫妻にお目にかかるのも、ここに出掛ける大きな楽しみだ。
また近々お邪魔することにしよう。
それにしても、昼下がりの電車のなか、赤い顔で酩酊しているのがちょっと恥かしかった。
(承前)
かくしてラミュはロシア民話「脱走兵と悪魔」を近代化し、脱ロシア化することで、「地球上どこででも起こりうる」、普遍的な物語へと創り変えることに成功した。
それではこの「兵士の物語」に、ストラヴィンスキーはどのような曲を付けたのか。
驚いたことに、彼の音楽もまた、ラミュの台本と同じ方向性を示していたのである。
リムスキー=コルサコフ晩年の愛弟子にして、ロシア国民楽派の正当な後継者であるストラヴィンスキー。バレエ・リュスの座付き作曲家として、彼は「火の鳥」(1910)と「ペトルーシュカ」(1911)で、ロシア民謡の旋律をふんだんに用いながら、師譲りの絢爛たる管弦楽法を駆使してみせ、続く「春の祭典」(1913)では、そこから一歩を踏み出しつつ、題材的にはロシア古来の習俗からインスピレーションを得ていた。
それからわずか数年。1918年のストラヴィンスキーは、別人のように変貌を遂げていたのである。
「兵士の物語」の音楽には、明瞭に「ロシア的」と感じさせるところがほとんどない。スラヴ的な旋律はすっかり影を潜め、ヴァイオリンの主題にかすかにその余韻を響かせるのみ。それどころか、ロシアとは無縁な音楽スタイル、それも複数のスタイルが同時並存的に用いられているのだ。
その端的な例としては、後半の「第二部」で兵士が悪魔からヴァイオリンを取り戻し、その楽の音で皇女の病を癒し、二人してデュエットを踊る…という場面に付けられた音楽が挙げられよう。
ストラヴィンスキーはこの場面で、タンゴ(アルゼンチン)、ワルツ(オーストリア)、ラグタイム(アメリカ)を次々に繰り出して、兵士と皇女のカップルに踊らせている。チャイコフスキーのバレエには、本筋とは関係なく各国の舞踊が披露される「ディヴェルティスマン」がつきものだが、ストラヴィンスキーの楽曲は、明らかにこの流儀を踏まえた一種のパロディとして発想された。
メヌエットやポロネーズといった宮廷舞踊ならともかく、お伽話の姫君がアルゼンチン・タンゴやラグタイムで踊り出す、という趣向は、すこぶる当世風かつインターナショナル、あえていえば荒唐無稽にして無国籍的である。
「兵士の物語」でストラヴィンスキーが選んだ特異な楽器編成についても一言。
ヴァイオリン、クラリネット、バスーン、トランペット、トロンボーン、コントラバス、そして打楽器という奇妙な七人編成は、彼のそれまでの作品にはもちろん、音楽史的にも前例のないものである。これについては、戦時下で大編成のオーケストラでの上演が望めないため、苦肉の策として小人数のバンド形態を考えついた、としばしば説明されるが、これは事実の半面しか言い当てていないような気がする。
この七人編成はアメリカで勃興したデキシーランド・ジャズ・バンドを模したものとする説も、いささか眉唾ものではないか。
1917-18年の時点で、ストラヴィンスキーがアメリカのラグタイムに関心を抱いたことは確かだし、そのきっかけが1916年バレエ・リュスのアメリカ巡業に同行した指揮者エルネスト・アンセルメ(彼は旅先でガーシュウィンやアーヴィング・バーリンと会っている)がスイスに持ち帰った情報とピアノ譜にあったことも事実であるが、はたしてそれだけの材料からストラヴィンスキーがこの編成で作曲できたかどうか、大いに疑問である。
むしろ、彼の念頭にあったのは、彼がヨーロッパの諸都市のレストランで聴く機会のあった「ジプシー」楽団の編成(ヴァイオリン、コントラバス、ツィンバロムなど)や、それ以上に、東欧に広く流布していたユダヤ人の民衆音楽「クレズマー」の楽器編成(ヴァイオリン、クラリネット、コントラバスなど)だった可能性が高いのではないか。
ジャズ・バンド、「ジプシー」楽団、クレズマー・バンド。いずれが祖型であるにせよ、従来のクラシック音楽とはおよそ異質な出自と性格をもつ「軽音楽」に、ストラヴィンスキーが鋭い嗅覚をもって接近していったことは間違いない。
にもかかわらず、「兵士の物語」の音楽は既存のいかなる範疇にも収まらない。さまざまなジャンルやスタイルを参照・引用し、併置・混交させつつ、そのいずれとも異なるハイブリッドな音楽が生まれたのだ。
ロシア国籍を喪失し、スイスに寓居を構える作曲家が書いたのは、いかなる国籍にも帰属しない音楽だったのである。
(承前)
台本作者ラミュは、物語の舞台をロシアからスイスへと移し変え、時代を20世紀初頭の「今」へとスライドさせた。そしてもう一つ見逃せないのは、彼が主人公の兵士を、はっきりと近代的な自我をもった人間として造形している点であろう。
悪魔の力添えで商人となった兵士は、ヴァイオリンと交換した「未来のことがわかる本」のお蔭で、瞬く間に巨万の富を築くのだが、一向に愉しむことができない。
誰もがうらやむ天下の成功者
なのに死人さながら、俺はこの世の除け者さ
俺はまさしく百万長者、いや億万長者
それなのに、生きながら死んだも同然だ
すべてを手にしながらも、心は虚ろなまま。大切なヴァイオリンを手放し、故郷と家族を捨てた兵士には、もはやどこにも「自分」が見出せないのだ。どんなに大枚をはたいても、絶対に買い戻せない宝がある。それがアイデンティティというものだ。
故郷から遠く引き離され、自分を証拠だてる一切を失って、あてどなく異郷の空の下をさまよい続ける兵士。
ラミュはひょっとして、この哀れな兵士のなかに、目の前の「故郷喪失者」ストラヴィンスキーの姿をダブらせてはいなかったか?