俗流ジャーナリズム風に煽るなら「わが国の美術界に激震が走った!」とでも申そうか。徳島県立近代美術館と高知県立美術館がそれぞれ二十数年前に購入した20世紀初頭のヨーロッパ絵画が贋作だと相次いで指摘されたというのである。前者はフランスのキュビスム画家ジャン・メッツァンジェの《自転車乗り》、後者はドイツ表現派の画家ハインリヒ・カンペンドンクの《少女と白鳥》。いずれもわが国では類例のない稀少なコレクションと認識され、常設展示されたばかりか、たびたび他館での展覧会にも出品されてきた。徳島のメッツァンジェに至っては、つい先ごろ国立西洋美術館で開催され、京都市美術館へ巡回した「キュビスム展――美の革命」にも貸し出され、贋作疑惑が発覚した6月半ばに慌てて展示から外されたという。
ジャン・メッツァンジェ 1883−1956
《自転車乗り》
1911−12年
油彩、砂、コラージュ、カンヴァス
55.0 × 46.0 cm
徳島県立近代美術館
■ 1999年、大阪の画廊の仲介により6,720万円で購入。
ハインリヒ・カンペンドンク 1889−1957
《少女と白鳥》
1919年
油彩、カンヴァス
69.0 × 99.3 cm
高知県立美術館
■ 1996年、名古屋の画商から1,800万円で購入。
この二作はいずれもドイツの贋作画家ヴォルフガング・ベルトラッキ(Wolfgang Beltracchi)がおそらく1990年代に制作し、20世紀前半に著名画家が描いた真作と偽って市場に流通させた数多くの贋作に含まれるらしい。この事実は6月上旬に美術関係者から「贋作だというネット記事を見つけた」と通報があって、初めて徳島県立近代美術館の学芸員の知るところとなった。高知県立美術館は徳島からの連絡で、ようやく事の経緯を知らされたそうな。
ベルトラッキは2010年に逮捕され、十四点の絵画作品(エルンスト5,カンペンドンク3,ぺヒシュタイン2,ドラン2,レジェとヴァン・ドンゲン各1)を偽造した廉で、妻とともに懲役刑に服した。ほかにも数多くの贋作疑惑があったが、すでに時効のためその罪状を問えなかったという。
このスキャンダラスな事件は欧米のメディアで大きく取り上げられ、今ではウィキペディアをはじめ、多くの関連記事をネット上で容易に参照できる。最も手っ取り早いのは、アメリカのCBSが十年前にTV番組 "60 Minutes" で「歴代随一の贋作者?(Best art forger in history?)」と題して手際よく報じた特集であろう(2014年2月21日放送)。今もYouTubeで視聴できる。番組のインタヴューで、ベルトラッキは「世界中の美術館で最も多く自作が飾られている画家は、ほかならぬこの俺様だ」とうそぶく。この時点で彼はまだ拘留中の身だったというのに!
この特集についての要約記事もある。
番組でベルトラッキの贋作と特定された二十三作は以下のとおり。
六月に美術関係者が徳島の学芸員に伝えたネット情報とは、おそらくこのあたりだろう。なにしろ、ここでベルトラッキの贋作として画像が掲げられた二十三点のなかに、徳島のメッツァンジェも、高知のカンペンドンクも含まれているのだ。
この重大な情報に、わがニッポン国では誰も気づかぬまま十年が空しく過ぎ去ったのは、実に由々しき事態ではあるまいか。一体全体どうしてこうなのだろう。四国の美術館のスタッフは諸事多忙の日々を送ってきたと拝察するが、所蔵作品の来歴や真贋に、ほんの少しの合間でいいから職業的関心を払うべきではなかったのか?
ジョージ・オーウェルの著作、とりわけ『動物農場』をこよなく愛する読者にとって、この小説は文字どおり必読ものなのだが、どういうわけか英国でも日本でも黙殺されたまま、まともに論評されたためしがない。素晴らしく感動的な「もしかすると、あり得たかも知れない」実録風フィクションなのだが。
David Caute
Phoenix, London
1995
『オーウェル博士とブレア氏』とは無論『ジキル博士とハイド氏』のもじりだろう。この題名と、表紙にあしらわれた少年と仔豚の写真とから、ひょっとして、これは・・・と勘づかれた貴殿はよほど鋭い御仁である。
そうなのだ、これはジョージ・オーウェル(本名エリック・ブレア)が寓話小説『動物農場(アニマル・ファーム)』を書くに至った経緯――その前日譚を、繊細な想像力で綴ったフィクションなのである。
このペーパーバックは1990年代末頃、ロンドンのテムズ河畔の青空古本市でたまたま出くわした。見返しには鉛筆書きで£3-とあり、すこぶる安価だが、読んでみると値千金。こんなに心を揺さぶられる本は滅多にない。読み進むにつれ、涙を抑えることができなくなる。どなたか邦訳する方は現れないだろうか。
ぼんやり過ごしていて、鍾愛の物語であるジョージ・オーウェルの『動物農場』の新しい邦訳が昨年秋に出ていたのを今頃やっと気づいた次第。しかも練達の訳者として夙に名高い金原瑞人さんの新訳で、ベルギー人のカラー挿絵入りだというので慌てて取り寄せた。やはり新刊書店にもっと頻繁に足を運ばねばならないと猛省。
せっかくの機会なので、あくまでも知り得た範囲内だが『動物農場』の邦訳を年代順に列記しておこう。Kindle版も含め、未架蔵のものが増えてしまったのも反省。
【01】
ジョージ・オーウェル
永島啓輔 訳
アニマル・ファーム 動物農場
大阪敎育圖書
1949年
*日本初訳。GHQから正式に認可された「第一回飜訳許可書」。
【02】
G・オーウェル
牧野 力 訳
動物農場
国際文化研究所/「エンゼル・ブックス」(新書)
1957年
【03】
George Orwell
佐山栄太郎 訳註
対訳オーウェル第1 動物農場 おとぎばなし
南雲堂
1957年
*未架蔵。
【04】
オーウェル
吉田健一 訳
動物農園
中央公論社
1966年
*『世界の文学』53 「イギリス名作集/アメリカ名作集」所収。
【05】
オーウェル
工藤昭雄 訳
動物農場
筑摩書房
1969年
*『世界文学全集』69「世界名作集 第二」所収。未架蔵。
【06】
ジョージ・オーウェル
高畠文夫 訳
動物農場
角川書店/角川文庫
1972年
*小生が最初に手にした版がこれなので懐かしい。
【07】
オーウェル
新庄哲夫 訳
動物農場 ある一つのたとえ話
学習研究社
1979年
*『世界文学全集』46「世界中短編名作集」所収。
【08】
ジョージ・オーウェル
開高 健 訳
動物農場 おとぎ話
筑摩書房
1984年
*開高 健『今日は昨日の明日 ジョージ・オーウェルをめぐって』所収。
【09】
ジョージ・オーウェル
川端康雄 訳
動物農場 おとぎばなし
岩波書店/岩波文庫
2009年
*原著の序文となるはずだった「出版の自由」、1947年に書かれた「ウクライナ語版のための序文」が附録につく。
【10】
ジョージ・オーウェル
大石健太郎 訳
対訳 動物農園 おとなのおとぎばなし
一藝社
2010年
*未架蔵。
【11】
ジョージ・オーウェル 原著
武井 宏文 著
マンガ版 動物農場
ホーム社/ホーム社漫画文庫
2012年
*未架蔵。
【12】
ジョージ・オーウェル
佐山栄太郎 訳
動物農場
グーテンベルク21(Kindle版)
2012年
*【03】の再刊か。未架蔵。
【13】
ジョージ オーウェル
開高 健 訳
動物農場
筑摩書房/ちくま文庫
2013年
*【08】の再刊。附録:開高 健「G・オーウェルをめぐって」。
【14】
ジョージ・オーウェル
Haruka Tsubota 訳
動物農場
オープンシェルフパブリッシング(Kindle版)
2014年
*未架蔵。
【15】
ジョージ・オーウェル
山形浩生 訳
動物農場 〔新訳版〕
早川書房/ハヤカワ epi 文庫
2017年
*冒頭ページの一行目に大誤訳がある迷訳版。
【16】
ジョージ・オーウェル 原作
石ノ森 章太郎 著
アニマル・ファーム
筑摩書房/ちくま文庫
2018年
*言うまでもなく漫画版。
【17】
ジョージ・オーウェル
毛利孝夫 訳
アニマル・ファーム <動物農場>
望林堂/望林堂完訳文庫(Kindle版)
2022年
*未架蔵。
【18】
ジョージ・オーウェル
吉田 健一 訳
ヒグチ ユウコ 挿絵
動物農園
中央公論新社
2022年
*【04】の再刊。
【19】
ジョージ・オーウェル
金原 瑞人 訳
カンタン・グレバン 挿絵
絵物語 動物農場
パイ インターナショナル
2023年
昨日の夕方ラジオを聴いていたら、ピーター・バラカン氏がふとこう口にした。「明日は僕が日本に来てちょうど五十年になる記念日です」と。1974年7月1日、初めて東京に降り立った日のことを、氏はこれまでもさまざまな機会に繰り返し述懐している。例えば三年前のこんなインタヴュー。
初めて日本に来た1974年の7月1日です。僕の人生が決定的に変わった日ですから。日本に着いたその日は、まだ23の誕生日も迎えていない若者でした。ロンドンの大学を卒業してから1年間レコード店で働いていたんですが、労働時間も長いし、給料も安いし、限界を感じ、日本のシンコーミュージックの面接を受けたんです。大学で日本語学科を卒業していたとはいえ、その時には日本がどんな国かもわかってないし、長く住むかも決めてなかった。それが合格して突然「10日後に来られないか」と電話をもらって、急遽来ることになっちゃった。結果的に47年経ってもまだいます(笑)。昔からの「放送の仕事をやりたい」という夢も実現できて、恵まれた人生を送れていると思いますね。
[シンコーミュージックの]オフィスが淡路町の交差点にあって、70年代は毎日この界隈にいました。到着した日も羽田空港から直行して、午前中にオフィスに着いたんですよ。少し挨拶した後、お昼ご飯に誘われて行ったのが「まつや」というお蕎麦屋さんでした。思い出深いです。[・・・]周りを歩いたら、当時を思い出しますね。淡路町の駅を降りるたびに「懐かしい」と思いますよ。
音楽・楽曲の著作権に関係した仕事がメインでした。海外の音楽出版社との手紙のやり取りが多かったです。音楽雑誌の海外ミュージシャンの取材について行って通訳をやったりもしていました。最初の一年はすべてが新しくて、冒険続きで楽しかったですね。
そして、バラカン氏の来日にまつわる想い出話は必ず、一枚のレコードとの運命的な出逢いのエピソードに行きつく。
そういえば、僕がシンコーミュージックのオフィスに初めて入った7月1日、僕の机に置かれていたのは、Phoebe Snowという女性ヴォーカリストのデビュー・アルバムでした。しかもその日が発売日だったんです。聴いてみたらものすごく良くて、愛聴盤になりましたね。
――シャンパーニュ・テタンジェのHPの連載「365 Anniversaries」より「ロンドンで抱いた夢が東京で叶い始めた記念日」
別のインタヴュー(『ブルータス』誌の「ピーター・バラカンが選ぶ32枚のレコードストーリー」)でもやはり同じ話が語られる。
74年7月1日、初めて東京に降り立った僕は、その足で新しい仕事場である音楽出版社に向かいました。そして用意されたデスクに着くと、たまたまそのデスクの上に未開封のまま置かれていたのが、このレコードでした。僕が勤める音楽出版社が、発売元のアメリカのシェルター・レコードの版権を管理していた関係で送られてきたものでした。出社1日目でとりあえずやることもなかった僕は、その無名の新人のレコードを聴いてみることにしたんです。そして……恋に落ちました。
僕はそのブルージーでジャズっぽい歌声を聴いて、てっきりフィービ・スノウは黒人だと思っていました。ジャケットのイラストを見ても顔がよくわからなかったし、髪の毛はクルクルのアフロのように描かれていましたからね(実際、クルクルでしたが)。ですから、彼女がユダヤ系の白人と知ったときは、ちょっと驚きました。
彼女の歌声は、よく響く艶やかな低音と、繊細なソプラノの裏声の間を、何の違和感も感じさせずに行き来することができるんです。そして彼女のデビュー・アルバム『Phoebe Snow』では、この天に祝福された歌声を存分に味わうことができます。
今日という記念日にこそ、フィービ・スノウのそのデビュー・アルバムを聴こうではないか。
"Phoebe Snow"
1. Good Times (Let the Good Times Roll)
2. Harpo's Blues
3. Poetry Man
4. Either or Both
5. San Francisco Bay Blues
6. I Don't Want the Night to End
7. Take Your Children Home
8. It Must Be Sunday
9. No Show Tonight
ヴォーカル/フィービ・スノウ
1973–74年、ロサンジェルス、ナッシュヴィル、タルサ
Shelter SR 2109 (LP, 1974)
※上のリンク先ではアルバムB面の最後の "No Show Tonight" がなぜか省かれて聴けないので、別途こちらを貼っておく。
何人かの知友から、「日本絵本研究賞」を受賞したその論文はどうすれば読めるのか、とのお尋ねがあったので、経緯とアクセス方法を改めてご紹介しておきたい。
このたび授賞対象となった論文は、白百合女子大学児童文化研究センターで開催した拙レクチャー(2020年3月7日の予定がコロナ禍で延期され、2022年3月26日に実施)から、その核心部分を抜き出して再構成したもの。内容は論考「光吉夏弥旧蔵のロシア絵本について」とその附録「光吉夏弥旧蔵ロシア絵本リスト」からなり、『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集』26 (2023年3月刊)の巻頭論文として世に出た。
それから半年ほど経ってから論文はネット上でも公開され、全く同じ紙面構成のまま、いつでもどなたでもお手元のPCから読むことが可能になった。下のリンク先から pdf ファイルをダウンロードできる(「ダウンロード」をクリック)。
併せてその要旨をご紹介する。ご興味をおもちの方はぜひリンク先から全文をご一読ください。
――1940年代から80年代まで、わが国の絵本・児童文学界を牽引した重要な翻訳家・研究者の光吉夏弥(1904~1989)は、ごく早い時期に1920・30年代のロシア絵本に注目し、数多くの実例を蒐集した。本論考では、白百合女子大学児童文化研究センターに残る光吉旧蔵ロシア絵本61点を紹介・分析するとともに、光吉が1943年に著した優れた論考「絵本の世界」におけるロシア絵本についての記述を参照し、彼が当時それらの絵本をどのように理解していたかを考察する。