大型連休中はどこも人の波、人の渦と相場が決まっているので、努めて外出を避けたいところだが、昨日(3日)是非とも上京せずにいられなかった。春の嵐さながらの悪天候を恨みながら、朝食もそこそこに家を出る。雨はどうにか降りやんだが、強風は収まる気配とてない。
渋谷のスクランブル交叉点で早くもめげそうになる。予想どおり尋常でない人出だ。道玄坂の途中で脇道に入り、いかがわしい界隈を足早に抜け、久しぶりに円山町の KINOHAUS 四階の映画館「シネマヴェーラ」へ。少し列に並んで十時半の開場とともに席に着く。
「映画史上の名作」特集でオーソン・ウェルズの処女作が上映されると鈴木治行さんから知らされた。これはどうしても見逃すわけにいかない。失われたと信じられたその作品《トゥー・マッチ・ジョンソン Too Much Johnson》(1938)が五年前イタリアで発見されたとき、その第一報を受けて小生はブログ記事をしたためて嬉しい驚きを表明していた(→奇蹟の出現「トゥー・マッチ・ジョンソン」 )。
それがわが国でも遂に上映されるのだから昂奮を抑えきれない。実はこの映画、すでに全篇を YouTubeで観ることができるのだが、それをあえて避けて日本初上映に臨む。なんとしてもスクリーンで観たかったのだ。
十一時きっかりにまず始まったのは、併映作品であるジョージ・キューカー監督の《女性たち The Women》(1939)。史上に名高いコメディの傑作ながら不案内な小生はこれも初めてだ。
とある富裕な有閑マダムが夫の浮気に憤って離婚するが、紆余曲折あって元の鞘に収まるまでを面白おかしく描いた作品ながら、肝心の夫は画面に現れず、登場人物は端役に至るまで全員女性という実験的な趣向が凄い。女優陣はノーマ・シアラー、ジョーン・クロフォード、ロザリンド・ラッセル、ジョーン・フォンテーン、ポーレット・ゴダードなどなど。綺羅星の如し。
絶頂期のキューカー手練れの演出術に言葉もない。二時間をたっぷり堪能。
そして二本目はお目当ての《トゥー・マッチ・ジョンソン》(上映題名は《ジョンソンにはうんざり》)は、バスター・キートン風の無声コメディである。もともとオーソン・ウェルズ主宰のマーキュリー劇団で同名の芝居(ウィリアム・ジレット作)に挿入される映像として撮られたもの。登場するのは劇団の花形役者ジョゼフ・コットン(追われる主人公オーガスタス)、後にウェルズの映画《マクベス》(1948)に出演するエドガー・バリアー(オーガスタスを追う寝取られ男リオン)、そのほか劇団員総出演。
他愛ない追跡物スラップスティックといえばそれまでだが、各ショットは即興的ながら丁寧に撮影されている。ただし未編集のラッシュ・フィルムだから、同シーンの別テイクが何度も繰り返される。本来四十分ほどになる予定が、現状では一時間八分もある。
もとより映画史を劃すような作品ではなく、元の芝居から切り離して単独で鑑賞すべきフィルムではなかろうが、それでも《市民ケーン》の三年前に二十三歳のウェルズが「動く映像」の魅力に開眼し、嬉々としてフィルムを回しただろうと想像すると実に愉快なのである。
追われる男に扮したジョゼフ・コットンは、キートンばりの無表情を少しも変えぬまま古い倉庫街を縦横に逃走し、非常階段を昇り降りし、屋根上をほうぼう逃げ歩くなど、スタントなしで相当に危険な演技に体当たりで(だが恐らくは嬉々として)挑んでいる。
残念だったのは、今回の上映プリントでは無声映画にありがちで月並みなピアノ伴奏がずっと流れるのみで、本来このフィルムのために作曲されたポール・ボウルズのオリジナル音楽(《ある笑劇のための音楽》)が使用されていない。それだけが心残りである。
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終映は十四時半。映画館を辞去してさっき来た道を足早に引き返す。
ひっそり静まり返ったラヴホテル街を過ぎ、寂れた十軒店を抜けると、表通りの道玄坂から渋谷駅までは猛烈な人また人。喧騒を必死に耐えて這う這うの体で駅改札まで辿り着き、ここでも混雑に揉まれながら階段を上り、やっとの思いで山手線に滑り込む。老体には過酷な移動である。
十五時きっかりに有楽町駅着。そこから東京国際フォーラムまでは指呼の距離にある。ここもまた人また人、雑踏と喧騒にうんざりする。エスカレーターで地階に降り、レコード会社のプロデューサーで顔馴染の宮山幸久氏に軽くご挨拶。彼はここで来日アーティストのサイン会のアテンド役を忙しく務めている。無駄話で邪魔してはいけない。
慌ただしく地上に戻ると、今度はエレヴェーターで六階へ。
毎年この時期ここで催される音楽祭には共感するところが甚だ尠い。
今年のテーマは "exil" すなわち「出国/亡命」とのことだ。諸国を旅するヘンデル、ハイドンに始まり、ショパンの「亡命」、20世紀にはシェーンベルク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ヒンデミット、バルトークら、越境者の例には事欠かない。重要な主題ではあるが、賑やかなお祭り騒ぎとの違和感が否めない。選曲のツメも甘く、的外れか妥協の産物にみえる。
なので全く食指が延びずにいたら、この演奏会に強く推奨された。
15:30~16:15 ホールD7
■ M157
レーラ・アウエルバッハ(アヴェルバーフ): さくらの夢 (2016)
平 義久: 鐘楼 (1994)
倉知緑郎:おお、海よ (1948)*
ショパン(リスト編): 私のいとしい人 ~六つのポーランド民謡(1847)
カステルヌオーヴォ=テデスコ: ショパンの前奏曲による三つのマドリガーレ (1933頃)*
ショパン: 願い (1829頃)*
吉田 進: 色は匂へど (1976)*
アーン: クロリスに (1916)*
*
カウンターテナー/村松稔之*
ピアノ/青柳いづみこ
こうして曲目を羅列してもこの演奏会の面白さは伝わるまい。音楽祭のテーマを踏まえて、作曲家の「越境/離郷」の諸相をさまざまに示した、博識な青柳さんならではの凝りに凝ったプログラム編成なのだ。
旧ソ連崩壊後いち早く渡米した才女アヴェルバーフが日本古謡《さくら》を独自に改変した《さくらの夢》(被献呈者はさっき地下でお目にかかった宮山さんだ!)に始まり、パリ留学でデュティユー、ジョリヴェ、メシアンに師事して終生この街に留まった平義久、深井史郎に師事し、ソプラノ古澤淑子の夫としてパリ、ジュネーヴで暮らした倉知緑郎、やはりパリでメシアンに師事し、異国で日本語によるオペラを作曲する吉田進――留学を機に越境した日本の作曲家のさまざまな "exil" 人生に思いを馳せる。
ショパンからはポーランド主題の作品、それも歌曲のリストによるピアノ編曲(リストもまた越境の人だ)、ポーランド語の歌曲(ヴィトヴィツキ詩)、さらにはショパンの前奏曲を伴奏部としてペトラルカ詩に附曲したカステルヌオーヴォ=テデスコ(彼もイタリアから渡米した)の歌曲集という、秘曲尽くしのセレクション。そして締めくくりにはベネズエラ生まれのパリジアン、レナルド・アーンの絶品《クロリスに》が聴き手を慰撫するように歌われる。
多彩だが筋の通った絶妙な選曲。至福というほかない四十五分間。
カウンタテナー村松さんの性別を越えた不思議な魅力がそれぞれの曲の個性を際立たせる。フランス歌曲と見紛うばかりの倉知作品、絵巻か書状のような巻物仕立ての楽譜を繙きつつ歌われた吉田作品(メシアン教室への「入学作品」だとか)、そして "C'est l'extase langoureuse" と言いたい恍惚境へと誘うアーン歌曲。どれも見事なものだ。
各曲の前に青柳さんが短く周到なトークを差し挟んだのが奏功し、聴衆は否応なしに作曲家の「越境/離郷」を思いながら聴き惚れた。これは今回の音楽祭の白眉をなす演奏会だったのではないか。
ところで入場時に渡された配布資料の酷さ。これは目に余る。
カステルヌオーヴォ=テデスコ作品の作曲年が「ca1829」、ショパン歌曲が「ca1933」、アーンの《クロリスに》が「1976」、吉田の《色は匂へど》が「1916」って・・・ 全部が間違いだ!
裏面の作曲家紹介では、カステルヌオーヴォ・テデスコを「イタリアの作曲家。18世紀後半のオペラ、特に喜歌劇の作曲家として知られている。代表作《秘密の結婚》は(以下略)」ってアナタ、これチマローザでしょうに!
まあ、それはそれとして、わが「音楽生活五十周年」の当日、心に残るような演奏会に足を運べたのは望外の幸せだった。
(承前)
盛大な拍手が終熄すると、イシュトヴァーン・ケルテースが指揮棒を構えた。そしてその一瞬のちに起こったことは五十年が経過した今もなお明瞭に記憶している。忘れられるはずもないのだ。
こう書くと、なんだか途徹もない椿事が発生したみたいだが、そんなことはない。プログラムどおりに音楽が始まっただけのことだ。
ゾルターン・コダーイの組曲《ハーリ・ヤーノシュ》の第一曲目「前奏曲:お伽噺が始まる」が開始される。
よく知られているように、この組曲は同名のオペラ(ケルテースはその全曲の録音も残している)から編まれたものだ。主人公ハーリ・ヤーノシュは今は年老いた冴えない農夫なのだが、若き日々の血気盛んな冒険を問わず語りに話し始める、というのがこの歌劇の筋立てになっている。
ヤーノシュは勇敢にも敵陣に単身で乗り込んでナポレオン軍を撃退、皇帝ナポレオンは跪いて彼に命乞いをした。英雄となった彼はウィーンでもてまくり、オーストリア皇女にも見初められ求婚されたが、きっぱり断った。などなど。要するに、壮大なるほら話の連続なのである。
なんでもハンガリーには「これから話を始めようというそのとき、くしゃみが出たならば、そのあとの話は真実だ」という意味の諺(?)があるそうで、だからこのオペラの冒頭に置かれた「前奏曲」は途方もない壮大な「くしゃみ」で開始される。
全オーケストラが揃って大音声で、一斉に「はっくしょ~ん」とやるのである。その音響の豊かさ、拡がりといったらまさに圧倒的だ。
ケルテースの振り下ろすタクトが導き出した大仰なこのクシャミこそが、大袈裟でなくわが音楽人生を決定づけた。
なんという豊麗で艶やかな響きなんだろう。それまでラジオの小さなスピーカーの貧弱な音にしか触れてこなかった小生は、全身が金縛りになるような衝撃を喰らい、そのあとはただもう陶然として、次々に繰り出されるオーケストラの妙技に聴き惚れた。
コダーイが開陳する管弦楽法は実に光彩陸離たるものだから、初めて生のオーケストラを耳にした小生がその鮮烈さに魅せられたのもむべなるかな。記憶の彼方で、あのときの瑞々しい響きの残響が今も鳴っているように感じるのは錯覚なのだろうか。
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これに対して、二曲目のベートーヴェンの《皇帝》協奏曲はなんだか不満が残る演奏だった。
ロベール・カサドシュのピアノは粒の揃ったたいそう流麗なものだが、その怜悧な美しさがこの曲を過剰にロマンティックに装っているようで、「ああ、これがサン=サーンスだったら良かったのに!」と悔しがったのを今もはっきりと思い出せる。剛毅さの欠片もない、ひたすら綺麗事に終始する演奏だった。こんな軟弱な音楽は断じて《皇帝》ぢゃない! そう内心の声が告げた。
休憩を挟んだ最後の《新世界》交響曲はどうだったか? さすがにケルテースの解釈の細部はすっかり忘れてしまったが、堂々と正攻法の演奏で、覇気と自発性と愉悦感に貫かれた名演だった…ような気がするのだが、もはやそれを確かめる術はない。
ひとつだけ憶えているのは、終楽章の最後の和音が後を引くように引き延ばされ、静かにホールを満たすのを、ただもう茫然と聴き入っていたことだ。今でも耳の奥のどこかで、その余韻が微かに鳴り響いているような気がする。
確かなことはただひとつ。この日の実演に打ちのめされた小生は、生の音楽の底知れない力に、身も心も拉し去られたことだ。その魅惑に抗することなどできはしない。
つい先日のことのような気もするが、それから五十年が経ってしまった。明日はまさにその記念すべき5月3日なのである。
(承前)
友人の上野クンのお父上から手渡されたのは、新宿の東京厚生年金会館で催される日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会のチケットだった。招待券なので値段は記されていないが、あとで調べたら正規価格は2,400円。1968年当時としてはかなりの高額で、田舎の高校一年生が購入できるような代物ではない。
その青い紙片には黒い文字でこう印刷してある。
Istvan Kertesz
with Japan Philharmonic Symphony Orchestra
●May 1st 7:00 p.m.
厚生年金会館 Kosei Nenkin-Kaikan Hall
floor 1 row G no.22
5│3A
末尾に大きく記された「5│3」は開催日、「A」はA席の意味。
ちなみに三行目の日付に誤植があり(!)、「1st 」のところがボールペンで「3」に直されている。
せっかく高価なチケットを頂戴したものの、これだけでは肝心の演奏曲目がさっぱりわからない。
そこで上野クンに翌日「どんな曲を演るのか知りたい」と尋ねると、次の日だったかに鉛筆で書きなぐったこんなメモを手渡された。
ロベールカサベ集
イストハンケルテス指揮
日本フィル
コダーイ
ハーリ・ヤーノシュ
サンサーンス
ピアノ協奏曲4番
ドボルザーク
交響曲9番
「ロベールカサベ集」というのが咄嗟にわからない。だが少し考えた末、これは協奏曲を弾く独奏者の名だと気づいた。だったらフランスの老巨匠、ロベール・カサドシュに違いあるまい。サン=サーンスのピアノ協奏曲第四番は彼が十八番にしている一曲だったのである。
幸いにも、その少し前にN響の定期に登場したピアニストの田中希代子がこれを演奏し、TVやFMで繰り返し聴いたので、小生にとってもすでに馴染の曲となっていた。
「イストハンケルテス」とはハンガリー出身の指揮者イシュトヴァーン・ケルテース István Kertész(当時の表記は「イストバン・ケルテス」)のことだ。
その評判は夙に耳にしており、ロンドン交響楽団と多くのレコーディングを手がけ、期待の指揮者として将来を嘱望されていること位は、この時点で小生も承知していたと思う。
演目は大いに期待できそうだ。コダーイの組曲《ハーリ・ヤーノシュ》も、ドヴォジャークの《新世界》も、すでにトランジスタ・ラジオで何度も耳にしていたし、そもそも両曲とも、ほかならぬケルテース指揮、ロンドン交響楽団のLPがスタンダードな名演として定評を得ていたのである。そのあたりの事情は、新参者である田舎の高校生も「耳学問」でうすうす勘づいていた。
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そして1968年5月3日。
何しろ半世紀が経過してしまったので、思い出せることにも限りがある。当日は晴れていたのか、雨だったのか、新宿駅から厚生年金会館まで迷わず歩いて行けたのか。何ひとつ記憶していない。
会場に着くとロビーに曲目変更の貼紙がしてあった。愉しみにしていた鍾愛のサン=サーンスの第四協奏曲はベートーヴェンの《皇帝》に差し換えになった由。ひどく残念に思ったのを憶えている。
なにしろ生まれて初めてのコンサートなので、さぞかし緊張していたに違いない。会場でのしきたりやマナーもまるで不案内だったのだろう、その証拠に、ロビーで入手できたはずのプログラム冊子を買い忘れてしまった。
ともかく、こちこちになって開場と同時に早々と自席に着いて、所在なく開演を待ったのだと思う。
奇蹟的に今も手元に残る半券の印字を再確認すると、「floor 1 row G no.22」すなわち一階平土間の前から七列目、ほぼ中央というベストシートだったことがわかる。なんという僥倖であろうか。ビギナーズ・ラックとはこのことだ。
ほどなく定刻の七時になった。
「巨大な便所のような」(吉田秀和の評言)厚生年金会館大ホールの殺風景な舞台上に楽員たちが三々五々参集し、思い思いにチューニングを開始する。TV中継ではすでに見慣れた風景だが、いざそれを目の当たりにすると、期待感で早くも心臓が早鐘のように鳴った(に違いないと想像する)。
場内が水を打ったように静まりかえった。ほどなく若々しい足取りでイシュトヴァーン・ケルテースが颯爽と現れた――と、そう書きたいところだが、このあたりの記憶は全く失われている。
盛大な拍手が終熄すると、ケルテースが指揮棒を構えた。客席の小生は緊張と期待とで胸がはち切れそうだ。
そしてその一瞬のちに起こったことは、五十年が経過した今もなお明瞭に記憶している。忘れられるはずもないのだ。
(次エントリーに続く)
明日はいよいよ5月3日。この日を迎えるのに感慨なきにしもあらず。なにしろ五十年目の記念すべき日になるからだ。
のっけから個人的な話で恐縮だが、小生が生まれて初めて音楽会なるものに足を運んでから、今年の5月3日できっかり半世紀になる。それがどうした、と言われたらそれまでだが、自分の音楽人生(といっても、もっぱら「聴くだけ」だが)にとって、やはり大きな節目なのだと感じている。
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田舎に住む小生にとって、音楽は身近なところに存在しなかった。両親はまるで歌舞音曲に関心がなかったし、まして楽器を親しく習い覚えるような境遇ではなかった。
そんな小生でも、小学校高学年になるとラジオで音楽を聴くことを覚え、いっぱしのポップス少年になった。いくつもの洋楽ベストテン番組を欠かさずに聴き、ヒットチャートをメモした。ビートルズとローリング・ストーンズの擡頭も、米国西海岸のフラワー・ムーヴメントの隆盛も、サイケデリック・サウンドの勃興も、なにもかもリアルタイムで耳にした。
ただし、あくまで貧しいトランジスタ・ラジオの音を通してであり、ミュージシャンの形姿に接した記憶がまるでない。住んでいた埼玉の田舎町にはレコード店がなかったし、音楽雑誌なるものに触れる機会も皆無だった。
今でも笑ってしまうのだが、1966年にビートルズが来日し、そのTV中継を観たとき、どれがポールでどれがジョンなのか皆目わからなかった。それほどまでに、ラジオの音だけが情報源のすべてだったのだ。
近所に一学年下の上野容(いるる)クンという友だちがいた。彼のお父上はたしか上野修(おさむ)さんといい、ニッポン放送に勤めていて、ヴァラエティ番組のディレクターをされていた(のちに同局の看板プロデューサーとしてラジオ番組に一時代を劃すことになる)。
小生のポップス狂いを知った上野クンは、お父上が自宅に持ち帰っていた試聴用の洋楽シングル盤を気前よく小生に頒けてくれた。
ペトゥラ・クラークの《恋のダウンタウン》、ダスティ・スプリングフィールドの《この胸のときめきを》、ママス&パパスの《夢のカリフォルニア》《アイ・ソー・ハー・アゲイン》、ホリーズの《バス・ストップ》、ラヴィン・スプーンフルの《サマー・イン・ザ・シティ》...。今でもこれらの楽曲をソラで歌える(ただし空耳のカタカナ英語でだが)のは、この頃シングル盤を擦り切れるほど繰り返し聴いたからだ(自宅には辛うじてポータブル式の電蓄があった)。1965〜66年頃、中学一年から二年にかけての一時期のことだ。
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そうこうするうちに、やがてクラシカル音楽にも少しずつ興味を覚えるようになった。そのきっかけはなんだったか...。おそらく当時のヒット曲のなかに、バッハの楽曲をアレンジしたもの(トイズの《ラヴァーズ・コンチェルト》、スウィングル・シンガーズの映画主題歌《恋するガリア》)があって、その独特の不思議な魅力に開眼したからではないかと思う。
中学三年の頃にはすっかりクラシカル音楽に魅せられてしまい、AMで聴けるすべての番組を逐一メモしながら聴き、それでも飽き足りなくなった小生は、親にねだって「高校入学祝い」を半年ほど前倒しにしてもらってFMラジオを手に入れ、早朝から夜中まで聴き狂った。もちろん克明にメモを取りながら。
高校に進んで間もなくの1968年4月、たまたま上野クンの家でお父上にお目にかかる機会があり、そのとき一枚の小さな青い紙片を手渡された。なんでもオーケストラの演奏会の招待券が手に入ったのだが、「自分は行かないので、キミに進呈しよう」という話だったのだと思う。どういう経緯からそうなったのか、もはや記憶が定かではないのだが、おそらく小生のクラシカル音楽への傾倒ぶりを上野クンがお父上に伝えたのだろう。あるいはひょっとして、入学祝いという名目だったのかも知れない。
演奏会が催されたのは1968年5月3日。
その日は文字どおり、小生のその後の人生を変えた。劇的に。決定的に。運命的に。不可逆的に。
(次エントリーに続く)
四月が終わらないうちに、朝顔の植え替えを済ませることにした。十日ほど前にヴェランダの小鉢に種蒔きし、すでに双葉が出ている朝顔の苗を、別の大きめの鉢に移植する作業だが、連休明けでは遅きに失する。
思い立ったら吉日とばかり、朝のうちにスーパーマーケットで苗植え用の土を買ってきて、腐葉土とよく混ぜ合わせて鉢を満たす。そこに苗をひとつずつ慎重に移し替える。最後に上から少し土をかけて、如雨露でそっと水遣りをして作業は終了。これであとは苗がしっかり根付くのを待つばかり。
***
スーパーへの往還のついでに、駅前のセブンイレブンで小包を回収。先般タワーレコードに註文しておいた新譜CDが届いたと連絡があったのだ。
ヴェランダでの移植作業が終わったあと、土埃を払って手を洗うと、早速その梱包を解いてディスクをPCのターンテーブルに載せる。心躍る瞬間である。
こういう音源が存在すると知らされていたものの、実際に手に取り耳にすると、やはり信じがたい思いがする。芳紀十七歳のジャクリーヌ・デュ・プレが生涯で初めて公に披露したシューマンのチェロ協奏曲のライヴ録音である。収録は1962年12月12日、ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホール。1962年当時のデュ・プレの演奏姿はこんなふうだ(→これ)。
"Schumann – Dvořák: Cello Concertos – Du Pré – Rostropovich"
シューマン:
チェロ協奏曲
チェロ/
ジャクリーヌ・デュ・プレ
ジャン・マルティノン指揮 BBC交響楽団
❖1962年12月12日、ロンドン、ロイヤル・フェスティヴァル・ホール
ドヴォジャーク:
チェロ協奏曲
チェロ/
ムスチスラフ・ロストロポーヴィチ
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団
❖1962年9月6日、エディンバラ、アッシャー・ホール(エディンバラ音楽祭)
ヴィラ=ロボス:
《バキアナス・ブラジレイラス》第五番 より「アリア」
ソプラノ/ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
チェロ/
ムスチスラフ・ロストロポーヴィチ
ロンドン交響楽団の七人のチェロ奏者
❖1962年8月23日、エディンバラ、アッシャー・ホール(エディンバラ音楽祭)
ICA Classics ICAC 5149 (2018) →アルバム・カヴァー
エルガーのチェロ協奏曲があまねく絶賛され、その名演とともにもっぱら記憶され回想されるジャクリーヌ・デュ・プレだが、彼女の資質が最も無理なく十全に発揮されたのは、含羞と憂愁に満ちたシューマンのチェロ協奏曲なのではないかという思いが強くある。彼女が1967年3月にニューヨーク・フィルの定期演奏会でレナード・バーンスタインと共演した際のライヴ録音を知る方ならば、小生の意見にきっと賛同してくれるだろう。
1968年にスタジオ収録されたデュ・プレによるシューマンの協奏曲の正規録音を聴いた吉田秀和はこう評している。
それは、一口でいえば、もう音楽がいっぱいつまっている演奏である。出だしの主題がはじまると、もう私たちは、そのチェロの生命の限りをつくしたような歌の噴出に、打たれないわけにはいかない。
第一楽章の緊張の山頂から一挙にかけおりてきて、つぎの柔らかな草原の褥に腰をおろすその転換を完全に準備する、そういう歌なのである。息苦しいほどの高さとゆったり心暖まる広さとが一瞬のうちに重なり合い、そうして入れかわってゆく。それは若くて、しかもすごく音楽性の充実した人からしかきかれないものかもしれない。
これらの評言はそっくりそのまま、デュ・プレが1962年に初めて人前でこの協奏曲を弾いた実演にも当てはまる。それはまさしく「生命の限りをつくしたような歌の噴出」そのものであり、「若くて、しかもすごく音楽性の充実した人からしかきかれないものかもしれない」。なにしろこのとき彼女は十七歳の若さだったのだから。
仔細に聴くならば、僅かに音程がふらつく部分や解釈が浅い箇所もないではないが、生まれて初めて挑戦する協奏曲でここまで深々と朗々と歌えるのは、彼女の天才の証し以外の何物でもなかろう。これを生で聴いた人はその感動を終生忘れられなかったはずだ。伴奏にジャン・マルティノンの老練なタクトを得たことも、この演奏に錦上花を添える結果をもたらした。
当時の彼女はすでに恩師ウィリアム・プリースの許を離れ、パリでポール・トルトゥリエの指導を受けていた。そのときの課題曲はほかでもない、シューマンの協奏曲だったのだ。
トルトゥリエは彼女の運指や運弓を口喧しくチェックし、シューマンの協奏曲の解釈を細部まで事細かに伝授した由。厳しくも懇切な大先輩はデュ・プレの天才を見抜くと共に、今は基本を敲き込む時期だとし、「しばらくの間は実演を避けるように」ともアドヴァイスしたという。
その助言にいわば背く形で彼女はこの協奏曲の実演に臨んだわけだが、これだけの成果が上がれば師匠も文句が言えなかっただろう。後年やはりデュ・プレを指導したムスチスラフ・ロストロポーヴィチは「私がこれまで耳にした最も完璧なシューマンだ」と彼女の演奏を称賛したという。トルトゥリエは彼女にシューマン解釈の奥義を伝えたのだ。
この1962年のライヴが重要な理由はもうひとつ、終楽章で彼女が弾く耳慣れない長大なカデンツァの存在にある。
周知のとおり、シューマンのチェロ協奏曲の終楽章ではコーダの直前にごく短い独奏部がある。ただしオーケストラ伴奏附きの異例なカデンツァだ。そしてフェルマータ(休止記号)があって、そのまますぐ終結部へと続く。再び吉田秀和を援用するならば、「[終楽章では] その中央にカデンツァがあり、これは独奏者のソロではなくて、管弦楽の伴奏を伴ったカデンツァである点で、典型的にロマンチックなのだが、かつて私が何かの本で読んだ限りでは、管弦楽つきカデンツァというのが、そもそも、この曲で始まったのだという説もあるらしいのである」。
デュ・プレが奏でるカデンツァは上記のフェルマータ記号の箇所に挿入され、管弦楽の伴奏抜き、しかも二分間以上も続く長大なものだ。吉田翁は触れていないが、シューマンの協奏曲のこの箇所にチェリストが独自のカデンツァを挟み込むのは20世紀半ば頃までは広く行われた演奏慣習だったのである。カザルスが戦後プラド音楽祭で弾いた有名な録音もそうだし、ピヤチゴルスキーやフルニエといった往年の大家はそれぞれ自作のカデンツァを用意してこの曲に臨んでいた。
驚いたことに、1962年にデュ・プレが弾いたカデンツァは上に名を挙げた三大巨匠のカデンツァのどれとも異なるユニークなものだ。第一楽章の主題がさまざまに回想され、内省的な瞑想へと再び誘う。徒らに技巧を誇示するようなパッセージは皆無で、ひたすらに深く沈潜する。
この協奏曲の終楽章は第一・第二楽章から一転して明朗快活な曲想のため、「突然それまでの天上の世界、あるいは高い幻想の世界から地上に飛びおりたかのよう」「音楽としては前より高いとは、恐らく、いえないだろう」(吉田秀和)と難詰されもするのだが、デュ・プレの奏でるカデンツァはそこに夢幻的な味わいを呼び戻すことで、この楽章の現世的な欠陥を救っている、と云うこともできそうだ。これは実に素晴らしいアイディアだ。
読者諸賢にはもうおわかりだろう、このカデンツァこそはほかでもない、当時の彼女の師匠ポール・トルトゥリエが自分用に拵えたものなのである(トルトゥリエは正規録音でも実演でも一貫してこの自作カデンツァを弾いている)。彼は愛弟子に「終楽章では是非とも私のカデンツァを挿入するように」と強くアドヴァイスしたに違いない。
後年のデュ・プレはこの師匠のカデンツァを弾くことをやめた。ロストロポーヴィチを始めとする戦後派のチェリストたちは自作カデンツァを挿入する「古めかしい習慣」を肯んじなかったから、デュ・プレもその趨勢に倣って、シューマンの書いた「楽譜どおり」の演奏をよしとしたのである。だから1967年のバーンスタインとの共演でも、68年のスタジオ録音でも、彼女はもうトルトゥリエ作のカデンツァを弾こうとはしなかった。
この夢見るようなカデンツァを彼女が放棄してしまったのは如何にも惜しい気がする。ここにロストロポーヴィチの意向を読み取るのは穿ち過ぎかもしれないが、トルトゥリエのカデンツァを省いたことで、図らずも彼女はかつての師匠からの離反を表明する結果となった。
以上のように演奏史をざっと繙いてみたとき、1962年12月のライヴの比類ない価値は自ずと明らかだろう。開花を前にした大輪の薔薇さながら、芳紀十七歳のジャクリーヌ・デュ・プレが奏でた、ただ一度だけ、二度はない(Das gibt's nur einmal)、かけがえのないシューマンなのだ。