こんな本が出ていることに以前から気づいてはいたが、とんと書店で見かけた験しがないので已む無くネットで註文してみた。
奥田万里
祖父駒蔵と「メイゾン鴻之巣」
かまくら春秋社
2008
扉や目次、後書きや奥付を含めても百二十頁の薄冊、しかも大半は主婦である著者の身辺雑記からなるエッセイ集なのだが、七十四~八十七ページに収められた標題作から目が離せない。
著者の義祖父(夫君の祖父)にあたる
奥田駒蔵(1882~1925)は近代文芸史上における陰の功労者である。彼が欧州から帰国後の1910(明治四十三)年(?)に東京日本橋小網町の鎧橋の側に開店した「
メイゾン鴻之巣」は日本におけるカフェ=レストランの草分けとして知られる。この店には早くから西洋志向を抱く文人たちが集い、飲食のみならず藝術談義を愉しんだ。パリやベルリンやブダペストなどで花開いたカフェ文化はささやかながら極東の首都にも伝播したのである。
明治末~大正初年の数年間にわたり催された藝術家の集い「パンの会」の会場になったこともある。高村光太郎の回想を引こう。
当時、文壇では若冠の谷崎潤一郎が「刺青」を書き、武者小路実篤、志賀直哉等によつて「白樺」が創刊され、藝苑のあらゆる方面に鬱勃たる新興精神が瀰(ひろが)つてゐた。
「パンの会」はさうしたヌウボオ エスプリの現はれであつて、石井柏亭等同人の美術雑誌「方寸」の連中を中心とし北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇、それから私など集つてはよく飲んだものである。
別に会の綱領などと言ふものがあるわけではなく、集ると飲んで虹のやうな気焔を挙げたのであるが、その中に自然と新しい空気を醸成し、上田敏氏など有力な同情者の一人であつた。
パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあつた三州屋と言ふ西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集つたものである。
著者はこの小網町の「メイゾン鴻之巣」の常客として、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、谷崎潤一郎、高村光太郎、伊上凡骨、志賀直哉、郡虎彦、芥川龍之介、菊池寛、和辻哲郎、内田魯庵、岩野泡鳴、島村抱月、小山内薫、平出修、大杉栄、荒畑寒村、片山潜の名を挙げている。
青鞜社の「新しい女」尾竹紅吉がこの店に何度か通い、名物の「五色の酒」(一種のカクテルですな)を嗜んだために世間の袋叩きに遭った事件は遍く知られていよう。1912(明治四十五)年のことである。
著者によれば「メイゾン鴻之巣」は何度か転居しているそうだ。
1910(明治四十三)?~ 日本橋小網町
1915(大正四)頃~ 日本橋木原店(きわらだな)
1920(大正九)末頃~ 京橋南伝馬町二丁目 *フランス料理「鴻乃巣」として
転居後の木原店の「メイゾン鴻之巣」も文学史に名を残す。著者も記すように
二階の食堂はかなり広く、「十日会」「未来」「新思潮」などさまざまな文芸団体の集会場として、小網町時代よりも一層利用されるようになる。芥川龍之介の『羅生門』の出版記念会は写真が残されていて、鴻之巣の店内のようすが知れる。
この『羅生門』出版記念会が催されたのは1917(大正六)年六月ニ十七日である。
三軒目の京橋南伝馬町の店は中央通りに面した本格的な四階建だった(
→これ)。現在の明治屋ビルのある場所だという。新装開店時に絵心のある店主が自ら描いたらしい告知ポスターも遺されている(
→これ)。
ひとつ註記しておこう。著者はこの最後の南伝馬町への転居を「大正九年の末ころ」と述べているが、どうやらこれは誤まりであるらしい。その証拠を挙げておく。
大正六(1917)年十一月七日、
大田黒元雄は「
蓄音機近代楽音楽会・兼第一回音楽茶話会」なる催しを挙行する。要するにレコード・コンサートなのだが、その会場に選ばれたのが「鴻乃巣」の三階。告知記事をかつて再録したことがあるのでご参照を願おう(
→ここ)。
この記事中にはっきりと、
京橋区南伝馬町「鴻の巣」三階が会場であると明記されているのである。
大田黒の鑑賞会が開催されたのは上述の芥川の出版記念会のほぼ四か月後。すなわち1917(大正六)年六月末から十一月初めまでの短い間に「鴻之巣」は日本橋木原店から京橋南伝馬町の目抜き通りへと進出を果たしたのであろう。
この時点で南伝馬町の店舗は写真の残る四階建のビルではなく、その前身の建物だったはずである。それがやがて同じ場所で改築された。先に引いた「鴻乃巣」の告知ポスターに「
改築落成」とあるのがその傍証である。
察するに、著者が記す「大正九年の末ころ」とはこの改築の時期を示しているのではなかろうか。