その競技会はワルシャワの地で五年に一度、1955年の第五回からはキリの良い「5」と「10」の年に開催されている。「国際フレデリク・ショパン・ピアノ・コンペティション」、略して
ショパン・コンクール。第一回の優勝者レフ・オボーリン以来、幾多の世界的奏者を輩出してきたピアニストの登龍門として知らぬ者とてなかろう。
1965年の第七回目の参加者は総勢七十八名。お膝元のポーランド、常連のソ連、フランスに加え、アメリカの初参加があり、極東の島国からも中村紘子、遠藤郁子、岩本義哉の三人が名を連ねた。
このときのことだ。黒服に身に包んだ寡黙で物憂げな黒髪娘が彗星の如く登場し、衆目を一身に集めたのは。
当時の音楽雑誌から引こう。彼女の名がわが国で活字になった最初の記事のひとつである。
☆黒衣の入賞者
さきごろワルシャワで催された第七回国際ショパン・ピアノ・コンクールでみごと第一位に入賞したアルゼンチンのマルタ・アルゲリヒ(23)はコンクールの出番を待っているあいだに気分がわるくなって、楽屋に医者が呼ばれた。彼女は不眠症のため、消耗しきっていたのだった。それにもかかわらず、彼女はステージに現われて、聴衆がイキもつけないほどの快速と燃え立つような奔放さで、ショパンの「スケルツォ嬰ハ短調」を弾いてのけた。彼女はキャシャな娘さんだが、ほとんど男性的ともいってよい迫力を以って演奏した。しかし、内面的なパッセージでは、透明で詩的な音をきかせ、フレージングの絶妙さは、ショパンのマズルカの最高の解釈家として二重の栄誉が与えられた。
この憂うつそうで、神経のぴーんと張りつめている、黒髪のアルゼンチン娘は不思議な魅力を備え、ショパンのメランコリックなムードにうってつけのように見うけられた。コンクールの開催中、彼女の優勝した日ですら、彼女は黒衣で身をつつんでいた。両親ともアルゼンチンの外交官なので、彼女は幼少のころからヨーロッパ各地で知名のピアノ教師に師事する機会に恵まれた。二つの国際コンクールに入賞、ヨーロッパを成功裡に演奏旅行し、優れた初録音を行なったのち奇妙なことだが、彼女は公開の演奏から身をひき、ほとんど毎日の練習すらやめてしまった。彼女は短かい不幸な結婚生活ののち、コンクールの六カ月前からキャリアを再び始めたばかりだった。
アルゲリヒは自分の私生活に関しては極度に口数が少なく、現在ブリュッセルに住んでいるが、住所は誰にも教えようとしない。入賞後出演の申し出が殺到したが、彼女は言質を与えることをこばんだ。コンクールにおける演奏の自己評価を求められた彼女は『ひどかったわ。特別うまく弾けたとは思いません。もっとうまく弾けるんですけど』と言葉少なに語った。 ~『音楽の友』1965年7月号「海外トピックス」
コンクールで彼女が弾いたショパンを列挙しておこう(
→典拠)。幸いなことにその殆どは実況録音として残され、CDで聴くことができる(*の曲以外)。
2月22日(一次予選)
夜想曲 第四番 ヘ長調 作品15-1
練習曲 第一番 ハ長調 作品10-1
練習曲 第四番 嬰ハ短調 作品10-4*
ポロネーズ 第六番 変イ長調 「英雄」 作品53
前奏曲 第十九~二十四番 作品28-19, 20, 21, 22, 23, 24
3月5日(二次予選)
円舞曲 第二番 変イ長調 「華麗なる大円舞曲」 作品34-1
マズルカ 第三十六、三十七、三十八番 作品59-1, 2, 3
練習曲 第十番 変イ長調 作品10-10
練習曲 ロ短調 作品25-10*
舟唄 嬰ヘ長調 作品60
スケルツォ 第三番 嬰ハ短調 作品39
3月10日(三次予選)
夜想曲 第十六番 変ホ長調 作品55-2
ソナタ 第三番 ロ短調 作品58*
3月13日(本選)
協奏曲 第一番 ホ短調 作品11今日はこの記念すべきコンクール初日から数えて四十五年目にあたる。しかも(諸説あるが一説に拠ると)
ショパンの二百回目の誕生日でもある。
そこで心してこの一枚を聴こう。
《アルゲリッチ/ショパン・コンクール・ライヴ1965》
ショパン:
ピアノ協奏曲 第一番*
スケルツォ 第三番
三つのマズルカ 作品59
ピアノ/マルタ・アルヘリッチ
ヴィトルド・ロヴィツキ指揮
ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団1965年3月13日(本選)、3月5日(二次予選)、
ワルシャワ、フィルハーモニー・ホール(実況)
日本コロムビア Muza COCO-78572 (1995)
LPで最初に出たときからカヴァーの図柄は一貫して変わらない(
→これ)。受賞直後に会場で撮られた写真とおぼしく、予選でも本選でも彼女はこの黒地に水玉模様のドレスを着用していた。上に引いた記事で「コンクールの開催中、彼女の優勝した日ですら、彼女は黒衣で身をつつんでいた」とあるのはこの服のことを指している。
これは至高の演奏だ。とりわけ本選会のコンチェルト。一気に高みへと駆け上り、どこまでも飛翔していく。混じりけのない純粋な音楽が次から次へと紡がれる。コンクールという過酷なオリンピックさながらの状況がここではむしろ功を奏し、息を呑む緊迫感と融通無礙な愉悦が共存する稀有な演奏となって結実したのだろう。唯一度、二度とない奇蹟のような名演である。