六時のTVニュースを観ていたら浅川マキの訃報が流れた。公演先の名古屋で会場に姿を見せず、宿泊先のホテルを訪ねたら部屋で亡くなっていたのだという。
朝日新聞の速報を引こう。
情念のこもった独特の歌唱スタイルで知られる歌手の浅川マキ(あさかわ・まき)さんが死去した。67歳だった。公演のため滞在していた名古屋市のホテルで倒れているのが17日夜、見つかった。愛知県警中署によると、死因は急性心不全とみられるという。
石川県出身。キャバレーや米軍キャンプで黒人霊歌を歌い、1968年に故寺山修司さん演出によるひとり舞台に出演。70年に「かもめ」「夜が明けたら」などを収録したアルバム「浅川マキの世界」を発表した。
寺山さん、北山修さんらが詞を提供した曲だけでなく、ビリー・ホリデーの曲など自身による作詞・訳詞も高い文学性が支持された。アンダーグラウンドを中心に活躍し、山下洋輔さん、坂田明さん、坂本龍一さんら多くのミュージシャンと共演した。
85年に網膜剥離で一時活動を中断したが、東京の新宿ピットインなどで積極的にライブを行っていた。15、16日にも名古屋市のライブハウスでピアニストの渋谷毅さんらと公演。最終日の17日に姿を見せなかったことから関係者がホテルを訪ね、浴室に倒れているのを見つけた。
浅川マキにぞっこんだったのは小生よりも少し上の世代かも知れない。「アングラ」という言葉がまだ生々しい響きを帯びていた時代に登場した黒ずくめの女。ジャズでもシャンソンでもフォークでもブルーズでもない、「浅川マキの歌」としかいいようのない独自の世界を創り出し、終生その住人であり続けた。
生の舞台を見聞したのはただ一回だけだが、その印象は今なお強烈に残っている。
1974年12月31日、新宿。大晦日の夜更けに始まるオールナイト公演である。
昔の資料箱をあちこち物色したら当日のチケットが出てきた。
浅川マキ
in アートシアター新宿文化
'74/12/30・31
開場 P.M.10:00
主催/せなまる
黒一色のチケットに記された文字はこれだけ。なのであとは記憶を頼りに記す。
それまでも「林パック」で時折かかっていたから浅川マキを知らなかったはずはないのだが、さすがに駆け出しの若造には近寄り難く、敬して遠ざけてきた感じ。ところが知り合った「パ聴連」(
→ここ)の仲間には熱心なファンが何人もいて、強く誘われるままに同行したのではなかったか。怖いもの見たさの気持ちがあったと思う。
満員の会場には開演前からただならぬ熱気が立ち込めていた。大晦日の深夜というお祭り気分も手伝っていただろうか。なにしろ誰もが「紅白」なぞ観ず初詣にも行かず、この場所にわざわざ参集しているのだ。
黒のロングドレスに身を包んだマキさんが登場し、さて何をどのように唄ったか。
「夜が明けたら」も「かもめ」も「ちっちゃな時から」も、さらには「朝日楼」(アニマルズの「朝日のあたる家」)もこのとき聴いたと思うのだが、残念ながらもう、どこがどうという記憶が定かでない。曲と曲の間のちょっとしたしゃべりが(意外にも)面白くて、客席が大いに沸いたような気がする。
確かなのはこの一夜のバックを
山下洋輔トリオが務めていたこと。当時のメンツは山下洋輔(ピアノ)、 森山威男(ドラムズ)、坂田明(アルトサックス)である。とにかく強烈にタイトでアグレッシヴな演奏だったのだが、だからといってマキさんの歌がかき消されるということはなく、主役を立てる見事な伴奏ぶりだったと憶えている。
こんなことがあった。盛り上がった客席の最前列で、興に乗ってハーモニカを吹き始める客がいた。マキさんの歌に独自のオブリガートを付ける塩梅である。しかもそれが滅法巧いのだ。
(まだ書きかけ)