老いたりといえども、ドラージュは作曲家である。ドビュッシーの歌曲のピアノ伴奏くらい諳んじていても不思議はない。とはいうものの、
私は全ぜん予期していなかった事に出合った時の様に当惑していたら、頭を静かにもち上げてうたえと云う合図をするので、とうとう心をきめ夢中で終りまでうたった。彼のピアノが即興的に暗譜でどう云う風にひかれたか、私の記憶は全く朦朧としている。唯音楽と調和の中にひっぱり込まれていた様に思う。そして終った時のドゥラージュの顔には、若者の様な興奮と感激が色どっていた。
いきなり否応なく「ただ音楽と調和のなかに引っぱり込まれたよう」な感じがした、というのである。
これがさっきまでの七十歳の老人と云う事は考えられなかった。後に彼に関して本で知った事の一つに、音楽教育を受けなかったドゥラージュは『ペレアス』に感激し、この曲をひく為にピアノの勉強を始めたと云う。そしてむづかしい曲は譜をよむより先に、耳でおぼえてしまうと云う事であった。そしてつねに彼は楽譜を書いたりよんだりする事をきらったそうで、音楽は耳のものと云つていた。それは単に耳が良いと云うだけではなく、音楽にしんから愛情をもっていると、楽譜だけには頼られなくなるのだと云うことを考えさせられた。
偶然とはいえ、ドラージュと古澤さんとで鍾愛の曲がピタリ一致したというのは幸いであった。『ペレアスとメリザンド』への愛着と崇敬の念がふたりを隔てていた垣根を一瞬のうちに取り払ったのであろう。
さて訪問の目的の「印度の歌」をきいて頂きたいと云った時には、『自分の曲をひくのはあがってこまる』と云いながらひいて下さった。中でも「孤独な樅の木」が大変お気に入った様で、『この曲だけは誰れにもささげてないから貴女にあげましょう』と、すぐデディカスを書いて下さった。
そして初めて他の曲を開いて見ると「美しい人」はモーリス・ラヴェルに「ブッダの誕生」はフロラン・シュミットに、最後のうたはストラヴィンスキーにささげてあった。
つまり、こういうことになろう。これはちょっと凄いではないか。
四つのインドの詩 Quatre poèmes hindous
1. 美女 Une Belle (モーリス・ラヴェルに)
2. 孤独な樅の木 Un sapin isolé (古澤淑子に)
3. 仏陀の誕生 Naissance de Bouddha (フローラン・シュミットに)
4. あなたが思うなら Si vous pensez (ストラヴィンスキーに)
ちなみに四つの歌にはそれぞれ「マドラス」「ラホール」「ベナレス」「ジャイプール」とインドの地名が副題として附されている。
「このささげ先のないうたはフルサワヨシコというアプサラ(印度の神話学語でニンフとか泉の女神のこと)のあらわれるのを待っていた」と書いて下さった。このページをあけながら、自分の楽しい思い出のためばかりではなく、あまりうたわれないこの美しい音楽を、人に知っていただくために、一そう深い勉強と練習できたえなければならないと私は思う。