5年程前のこと、ジュネーヴのラジオよりスイス・ロマンドの指揮者エルネスト・アンセルメとストラヴィンスキーの「三つの日本の詩」を唄うようにたのまれたので、丁度時間の都合もあって同じ編成の小オーケストラ伴奏のモーリス・ドゥラージュの「四つの印度の詩」をプログラムに入れることにした。この曲は故クロワザ夫人が『東洋的で貴女の声に合うから是非うたいなさい』とよく云っておられたので、師のもとをはなれてから、思い出して自分で勉強した曲であった。
いきなりの引用になったが、これは帰国後まだ間もない古澤淑子さんの「
モーリス・ドゥラージュのこと」という回想の冒頭である。執筆は1955年の夏頃であろう。
そしてこの機会にぜひとも作曲者にきいていただきたいと思い、パリの西南のはずれのヴィラ・ド・ラ・レユニオン(小さな別荘村)を訪れた。パリ市内のどす黒い建物や重苦しい空気から解放されて、そこには青い空と木の枝が見える。小ぢんまりと、しゃれた別荘はどれも一度住んで見たくなる程親しみ深い。ドゥラージュの家も大変こっていた。先づ玄関に迎えて下さった夫人に案内されて真黒にぬりつぶしたエレヴェーターにのる。二階建なのにわざわざエレヴェーターをつけた所などはいかにも病後か引退生活を思わせる。
モーリス・ドラージュ Maurice Delage はラヴェルの四歳年下の1879年生まれだから、古澤さんがその寓居を訪ねたとき(1950年初夏と推察される)、すでに七十を超えていた。若い頃にインドや日本を旅し、ラヴェルと共に血気盛んに「アパッシュ」(フランス語でアパッチ族を意味する)を名乗っていた時代の面影はなく、半ば楽壇からも忘れられ、ひっそり隠棲する老匠の寂しい姿があるだけだった。
ドゥラージュの姿は奥に眼があるのか知らと思う位きつい眼がねをかけた神経質な老紳士で、髪のかり方にも服の着方にもおよそ芸術家風なおもかげ等なく、どこにも見る様な中肉中背のタイプで私の最初の印象は小さな失望の様なものであつた。何故なら彼の曲をみて(もっとも書かれたのは30歳の若かりし頃でこれを忘れる事は出来ないが)その情緒的な美しさに、私はすっかり溺れてしまい、作曲者を勝手に非現実的な人物に想像していたから。
(明日につづく)