朝から冷たい雨が降りしきる。原稿執筆の下調べに東京まで出向く予定だったのに気勢を削がれた形だ。ずるずる出発を躊躇っていたら、怠け心が湧いてきてそのまま在宅してしまう。
仕方ないので寝転んで音楽を聴く。珍しくカラヤンの古い実況録音をかけてみる。
1970年春、カラヤン&ベルリン・フィルが三度目の来日を果たした。
事前に発表された演目は以下のとおりだった。会場はすべて上野の東京文化会館。チケット代はS=6,000、A=5,000、B=4,000、C=3,000、D=2,000。
5月16日(土) ブラームス: 交響曲 第三番、第二番
5月17日(日) オネゲル: 交響曲 第三番、ドヴォルザーク: 交響曲 第八番
5月20日(水) シューマン: 交響曲 第四番、R・シュトラウス: 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
5月21日(木) ベルリオーズ: 幻想交響曲、ラヴェル: 亡き王女のためのパヴァーヌ、組曲「ダフニスとクロエ」 第二番
いかにもカラヤンらしい全方位型のヴァーサタイルなプログラムだ。独墺ものに加え、東欧とフランスの近代への目配りもあってなんとも心憎いバランス。いつも定番のベートーヴェンが見当たらないのは直前の大阪万博で全交響曲を振るため、意図的に東京での曲目から外したのであろう。
こうして書き写していても心が躍る。どれもがカラヤンが自家薬籠中の楽曲。満を持した、しかも意欲的な選曲なのだ。今だったら連日欠かさず通い詰めるところだが、懐具合が寂しい高校生に購入できるのはどれか一日だけ。苦渋の選択である。
音楽を聴き始めてまだ日の浅い田舎者の十七歳は、熾烈なチケット争奪戦に参戦すべく、発売日に早起きして東京・有楽町まで出向き、長蛇の列に加わった。もちろん生まれて初めての体験である。1970年4月10日のことだ。
当日の日記メモを引こう。
四月十日 金曜日。
学校をサボるのは気が引けたが、今日はまる一日を東京で過ごした。
朝5:20ごろ家を出て、6:40ごろ日生(劇場=前売場所)着。建物のなかに泊まり込んだ人たちがそこらじゅうにいる。ゴロゴロ転がっている感じだ。
到着した順に番号札を貰う。点呼のために必要なのだという。僕の番号は「442」。それだけの人が集まっているのだから驚きだ。このあと何度か点呼があって、そのつど返事しないと番号が取り消されてしまう。
七時点呼。八時に再点呼。八時半にようやく係の人から整理券を手渡される。発売時刻は十時なのだ。
ただ待っていても退屈なので、「443」番の人としばらく雑談。どの日を選べばいいのか意見を言いあう。それでもまだ時間があるので、銀座のあたりをひとりでぶらぶらと歩き回る。
十時に戻ってくると、発売窓口にはすでに長蛇の列。それから延々と待たされ、十二時過ぎまで並んでやっと自分の番が回ってきた。いちばん安いD券(2,000-)はもうとっくに売り切れていて、僕は自分の希望する日が売れてしまわないかと、内心ヒヤヒヤしていた。
ここで言う「自分の希望する日」とは最終日の21日、ベルリオーズ+ラヴェルのプロだった。前もって秘かにそう心に決めていたのだ。
列に並んだ周囲の人たちは概ねブラームスか、シューマン&シュトラウスの日を希望していた。オーストリア人指揮者がベルリンのオーケストラを振るのだから、本場物のドイツ音楽に如くはないというわけだ。「カラヤンのリヒャルト・シュトラウスは絶品だヨ」としたり顔で吹聴する通人もいた。それでも自分は「オール・フレンチ・プロ」に固執していたのだ。どうせ一日しか聴けないのなら、それ以外あり得ない、と。我ながら不思議だが、よほど当時からひねくれていたのだろう。
(まだ書きかけ)