東京へ出る用事があったので、渋谷駅からニ十分ほど歩いて渋谷区立松濤美術館で「生誕120年
野島康三 肖像の核心」展を覗いてみた。今日が最終日というので、見逃すには惜しい気がしたのである。
1910年前後から1950年代にまで及ぶ写真家・野島康三(1889-1964)の全仕事を通観する絶好の機会である。
微妙な諧調を捉えた初期の風景、油絵のように重厚な20年代の肖像、そして「瞬間の定着」「フレーム意識」など写真ならではの表現を確立した30年代の人物・裸婦の連作。どれもが揺るぎない強度と完成度を備えていて心底震撼させられる。写真の近代をまるごと体現したかのような驚嘆すべき仕事ぶりだ。
もうひとつ特筆に値するのは本展開催にあわせ美術館が刊行したカタログ。いやこれはカタログの範疇を大きく逸脱する。『野島康三 作品と資料集』と題されたとおり、同館が所蔵する潤沢な野島関連資料のすべて、全写真はもちろんのこと、私的なアルバムや手紙、周辺の写真家の作品まで収録した労作である。
野島は写真家としての本業に加え、画廊「兜屋画堂」の開設、雑誌『光画』の刊行、写真館と賃貸アパートを兼ねた九段の「野々宮ビル」の経営、とその活動は実に多岐にわたっている。富本憲吉、中原悌二郎、岸田劉生、中川一政、柳宗悦らとの交遊も見逃せない。岡田桑三、原弘らのデザイン集団「東方社」最後の所在地が野島の「野々宮ビル」だったという事実もなにやら示唆的だ。
厖大な資料に懇切な解題を添えた渾身の一冊は汲めども尽きぬ泉さながら。今後も繰り返し紐解くことになろう。この刊行こそ美術館の鑑だ。困難なご時勢に鮮やかな一矢を報いた松濤美術館の労を多としたい。