こういう演奏会を聴いてしまうと、もう何も書けなくなる。あまりの凄さ、あまりの素晴らしさに黙るほかなくなるのだ。
波多野睦美 歌曲の変容シリーズ 第5回
ゆめのよる
~サティ、モンポウ、アイスラー、高橋悠治の歌曲の夜~
王子ホール
19:00~
メゾソプラノ/波多野睦美
ピアノ/高橋悠治
モンポウ: 魂を歌う
プーランク: ギターに寄せて
アントネッロ・デ・カゼルタ: 完璧の美
プーランク: 平和を祈れ
サティ: ジュ・トゥ・ヴー
モンポウ: 三つの遊び唄
モンポウ: 君の上には花ばかり/夕べ同じ風が/君は海のよう ~「夢との闘い」
リリー・ブーランジェ: 帰還
ワイル: ユーカリ
*
アイスラー: 老子亡命途上での道徳経成立の物語
サティ: 三つのジムノペディ
サティ: 帽子屋、ダフェネオ
高橋悠治: ゆめのよる/鳥は空を求めている/おやすみなさい
(アンコール)
ウォーロック: 子守唄
高橋悠治: むすびの歌
なんとも凝った取り合わせの選曲。フランス語、ドイツ語、カタルーニャ語、日本語が入り混じる。モンポウやアイスラーは苦手な作曲家なのでちょっと尻ごみしたのだが、おふたりが登場し、お辞儀もそこそこにいきなりモンポウの序奏が始まるや一気に惹き込まれた。これはちょっと普通ぢゃない。それからの一時間五十分、呪縛されたまま腰が抜けてしまい休憩になっても椅子から立てなかった。
演奏会タイトルの「ゆめのよる」とは谷川俊太郎の詩の題名で、矢野顕子の依頼で高橋悠治がこれに附曲した。その曲は後半終わり近くに出てくるが、リサイタル全体のコンセプトはどうやら夢に仮託した「ここではない、どこかへの旅」にあるらしい。プログラム冊子に波多野さん自身が寄せた小文にこう記される。
牛の背にゆられながら国境を越えてゆく老子
長い年月の放浪を終えて 故郷へ帰還する船に乗るオデュッセウス
この世の果てにある希望の島ユーカリへ流れ着く 夢
国境を越える
老子とはブレヒトの死後そのバラッドにアイスラーが作曲した長い歌曲を指すし、
オデュッセウスの帰還の旅は夭折したリリー・ブーランジェの歌の主題、理想郷
ユーカリとは言うまでもなくクルト・ワイル亡命時代のシャンソンだ。旅、流離、放浪、希望と憧憬、そして達観。波多野さんはさらに「眠り」「夢」「夜」「波」というキーワードを挙げている。
プログラム全体を点綴し統合するフェデリコ・モンポウとエリック・サティは高橋悠治が愛惜措くあたわざる作曲家だし、ブレヒトを媒介にしたワイル、アイスラーも高橋にとって因縁のある先達だ。高橋=波多野ならではの絶妙な選曲と言うべきだろう。
どの曲がどうだったと詳述することはすまい。波多野さんのフランス語のディクシオンに難癖をつけても始まらない。歌手として絶頂期にある彼女が心から唄いたい歌を唄う。それだけで充分だろう。それも高橋悠治の伴奏でだ。なんたる贅沢。
「伴奏」という言葉がこれほど憚られるピアノもなかろう。鋭い耳で把握され、深い洞察力とともに紡ぎ出される高橋のピアノ演奏は、聴く者をただならぬ体験へといざなう。「意味のない音なんて、ひとつも存在しない」。漫然と聴き流すことなぞできやしない。どれもが稀有な美しさを備えた音楽に聴こえる。なんというモンポウ、なんというリリー・ブーランジェ、なんというアイスラーだろう! 世には未知の名作がこんなにも埋もれているのか、という感慨がこみ上げる。
後半いささか長大で難渋なアイスラーのあと、サティの「三つのジムノペディ」で波多野さんが譜めくり役に廻る趣向が面白い。そのあとの二曲の歌曲も含め、高橋の呟くような、噛み締めるような独特なサティが聴けたのが嬉しかった。そしてそのままの気分で、自作自演の三曲へ。「ゆめのよる」は創唱者である矢野顕子の歌いっぷりとは全く別の曲の趣。波多野さんのも悪くないのだけれど。
アンコールで英語の歌になったとき、波多野さんの歌唱には長旅を終えて帰郷したかのような安堵感が漲ったようにみえた。彼女の鍾愛の一曲であるらしいピーター・ウォーロックの「ララバイ」。ウォーロックを高橋悠治で聴けるなんてもう二度と体験できないだろう。
今夜の選曲とほぼ軌を一にした新しいアルバムが出たという。会場でも販売していたが、生の感興を忘れたくないので、今日は遠慮した。でもいずれきっと聴きたくなるに決まっているのだが。