もう待ち切れない。一刻も早く耳にせずにはいられない心持ちでいた。たまたま池袋へ出る機会があったのでレコード店に駆け込み、手にするや封を切るのももどかしく、帰りの車中で聴き始めた。素晴しい… 想像を遙かに上回る美しさに人目も憚らず恍惚と夢心地になる。
"Ravel Orchestra Works"
ラヴェル:
スペイン狂詩曲
マ・メール・ロワ
ラ・ヴァルス
クープランの墓
亡き王女のためのパヴァーヌ
「ダフニスとクロエ」第二組曲
(アンコール)
ベルリオーズ:
ラコーツィ行進曲
妖精の踊り
*
ラヴェル:
マ・メール・ロワ
ラ・ヴァルス
亡き王女のためのパヴァーヌ
「ダフニスとクロエ」第二組曲
*
アンドレ・クリュイタンス指揮
パリ音楽院管弦楽団
1964年5月7日、東京文化会館(実況)
Altus ALT 167/68 (2009)
もはや伝説となったクリュイタンスとパリ音楽院管弦楽団の最初で最後の来日公演の実況録音である。そもそもフランスのオーケストラが来日するのもこれが初めてだったのだが、クリュイタンスはこの来日の僅か三年後に急逝してしまい、それを機にパリ音楽院管弦楽団は解散を余儀なくされる(シャルル・ミュンシュを擁するパリ管弦楽団に「発展的解消」された)のだから、この1964年の日本公演こそは千載一遇の機会だったのである。
4月28日の大阪フェスティバルホールでの「オール・ラヴェル・プロ」を皮切りに大阪、福岡、東京で全十一公演が行われ、「幻想交響曲」、フランクの交響曲、「海」、「バッカスとアリアドネ」をはじめ、「エロイカ」やブラームスの「第四」、「展覧会の絵」や「火の鳥」までが演奏されたのだという。
かつて福岡で彼らの演奏会に接したという、わが大学時代の教授はそのときを回想して、「あれは本当に素晴らしかつたなあ。兎に角クリュイタンスの指揮振りがエレガンスの極みで余りにも見事だつたものだから、一緒に聴いた家内なぞはすつかりクリュイタンスに夢中に成つて了ひ、傍で見てゐて腹立たしく思はれる程だつた」と感に堪えない面持ちで述懐していたのを思い出す(ご夫婦が聴いたのは「エロイカ」と「幻想」の日)。
東京オリンピック開催や「夢の」新幹線開通で沸き立つ1964年当時のニッポンにあって、小学六年生だった小生は切手収集やトランジスタラジオのポップス番組にばかりうつつを抜かしていて、何も知ることなく無為に時を過ごしてしまった。せめてもう数年早く生まれていたなら…と深く悔恨の溜息をつく次第である(クラシカル音楽を聴き出すのは1966年のこと。生演奏を初めて聴いたのは1968年だ)。
なにはともあれ、NHKのアーカイヴに東京公演の二晩(5月7日の「オール・ラヴェル」、5月10日の「幻想」)の実況録音が保存されていたのはせめてもの慰めである。これらの録音はLP時代すでに発掘され、とりわけ良質なステレオ録音が残されていた「幻想」は、クリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団による同曲の正規録音が存在しない(フランス放送国立管弦楽団とのモノーラル録音、フィルハーモニア管弦楽団とのステレオ録音が行われたのみ)ことも手伝って現存唯一のステレオ実況録音として広く世界中に喧伝され、先年ヨーロッパで発売された "Great Conductors of the 20th Century" シリーズのクリュイタンス編にも畢生の名演として収録されたほどである。なるほどそれはあらゆる予想を覆す、ミュンシュに勝るとも劣らぬ熱狂的で壮烈な生演奏だった。クリュイタンスもまた、実演とディスクとが甚だしく異なるタイプの演奏家だったのである。
さて今回の二枚組CDに収録されているのは1964年5月7日の「オール・ラヴェル・プロ」の全演目(とアンコール)である。ラヴェルの曲目については上述のLP(セヴンシーズ・レーベル)でも、2000年に同じこの Altus レーベルから出たCDでも全曲を聴くことができたのだが、それらはすべてモノーラル音源。三日後の5月10日の「幻想」ではステレオ録音が現存するのに、この日の実況についてはモノーラル録音しか残されていないのだ、というインフォメーションが繰り返されてきた。
無理もない、1964年といえばようやくNHKがようやく全国ネットでFM試験放送を開始した年で(本放送は1969年から)、おそらくラヴェルはテレヴィジョン用か、AM放送用のみの収録しかなされなかったに違いない、そう誰もが諦めていたのである。致し方ない、モノーラルで聴けるだけでもありがたいのだ、と。
それがどうだろう、その晩に収録されたステレオ録音がこのほどNHKのアーカイヴから発見されたというのだ。残念ながら当夜の曲目の全部ではないのだが、クリュイタンスが最も得意としていたらしい「マ・メール・ロワ」、実演を聴いた宇野功芳氏が「これこそ王朝時代の音楽だ」と評した「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ステレオならではの細部の空間的ニュアンスが期待できる「ラ・ヴァルス」と「ダフニス」とが、どれも純正なステレオ収録で初めて耳にできるというのである(上の収録作品リストのうち
濃い緑色で記したのがそれ。他はモノーラル録音)。この思いもよらぬニュースに胸が高鳴らないとしたら余程どうかしている。 冒頭に「もう待ち切れない。一刻も早く耳にせずにはいられない」と息せき切って記したのは蓋し当然至極なのだ。
(まだ書きかけ)