(承前)
昨晩は疲れ果てて寝て了ひ観劇の感想を書き終へることが出来なかつた。印象が薄れぬうちに続きを書くことにしよう。
この分野には不案内なので軽々しく口に出来ないのであるが、家人の話に拠れば文楽で西洋文藝に取材した新作がかゝることは滅多に無いらしい。会場で購めた冊子の解説に拠ると、此れ迄『ハムレット』『椿姫』『蝶々夫人』など僅か数例を数へるに過ぎないやうである。
今回の『天変斯止嵐后晴(てんぺすとあらしのちはれ)』は一九九一年に倫敦での上演を念頭に創作されたものゝ果たせず、翌九二年に大阪と東京で数度試演されたきりの不遇な作である由。今年になつて大阪の国立文楽劇場の開場二十五周年を機に漸く初の本格的な舞台上演が叶つたものだと云ふ。
沙翁劇の翻案と云へばいつぞや蜷川幸雄が新作歌舞伎として演出し、今春には英京バービカン座でも上演した『十二夜』が真先に思ひ出されるだらう。あのときの舞台が様式化された韻文芝居である沙翁劇が本質的に歌舞伎に近しいものであると云ふ嬉しい発見に誘つてくれたとすれば(其の折りの感想は
→此れ)、今回の企ては演劇形態として文楽が孕む不自由さ、と迄云つては云ひ過ぎかも知れぬが、その特性と限界に就て考へさせた。寡黙な人形の所作と浄瑠璃の朗誦のみで登場人物の様々に交錯する思惑や入り組んだ関係を立体的に描き出すのは至難の業だと云ふ事実に気付かざるを得ない。人物の心情を長々と語らせる独白はあつても、台詞の応酬に依つて各人の関係性を瞬時に照らし出すやうな場面が無い為に、集団劇としての結構布置や人物の絡み合ひ具合がポリフオニツク(多声音楽的)に浮かび上がつてをらず、恩讐の彼方に復讐心は消へ失せ旧悪の総てが赦され、誰もが素晴しき新世界に参入すると云ふ大団円がぐつと胸に迫つて来ないのだ。
殊更に目覚ましく思へたのは全篇をドラマチツクに彩る三味線の雄弁で鮮やかな響き。そこに時折りオブリガート風に琴や十七弦の玄妙な装飾音が被さつて、大嵐と魔法に彩られた摩訶不思議な雰囲気を存分に漂はせていた。とりわけ序幕の嵐の場で荒海を背に奏者がずらり舞台に勢揃ひし、音曲のみで吹き荒ぶ風雨や波飛沫を髣髴とさせたのは思ひ掛けず効果的な工夫だつた。作曲を担当された鶴澤清治氏は三味線アンサンブルの一員として今回の上演にも加はつてゐる。
終幕のめでたしめでたしのあと盛大な拍手を遮るやうに主役の阿蘇左衛門がひとり進み出て締め括りの口上。客席に向かひ、「総ての魔術を捨て去つた今は拙者も只の老ひ耄れ。首尾よく故郷に戻れるか島に留まるかはお客様の思し召し次第」と語りかける。周知の通り此の件りは原作の芝居と同じ展開であり、引退を決意した沙翁自らの述懐とも解されてゐる名高い独白なのだが、なかなかに感動的に響く。かうした幕切れは文楽ではちょつと珍しい趣向ではあるまいか。