バロック・オペラの門外漢に過ぎない小生がその問題を気に懸け始めたのは、かつて次のような一節を目にしたときからである。
現存するこのオペラの典拠には問題がある。われわれの手許には初演に関連した「シナリオ」すなわち粗筋があり、1651年に巡業歌劇団「フェビアルモニチ」がナポリで上演した際の公刊台本があり、年代不詳のいくつかの手稿台本がある。さらに [台本作者である] ブゼネッロの著作集 "Delle hore ociose" (1656)所収の台本がある。音楽はふたつの手稿譜として伝わっている。一方はナポリにあり、おそらく1651年の上演に関連したものと思われる。他方はヴェネツィアにあり、こちらは一幕と三幕のみで、1650年代初めにフランチェスコ・カヴァッリの妻の手で筆写され、カヴァッリ本人の変更と註釈が加えられている。
この音楽が最初にはっきりモンテヴェルディの作とされたのは1681年のことであり(ヴェネツィア手稿譜にはモンテヴェルディの名が書き込まれているが年代不詳)、どの程度まで彼の真作なのかは今なお完全には解明されていない。現存する『ポッペア』が複数の作曲家の作の寄せ集めであることはまず疑いのないところであろう。終幕のネローネとポッペアの二重唱の歌詞は、ベネデット・フェッラーリの『王の羊飼 Il pastor reggio』(現存せず)の再演(ボローニャ、1641)にも、フィリベルト・ラウレンツィの余興音楽(1647)にも用いられている。そして音楽にもほぼ確実にモンテヴェルディの年少の同時代人、すなわちカヴァッリ(ヴェネツィア手稿譜の冒頭のシンフォニアは、カヴァッリの1645年作『ドリクレア』からの転用)やフランチェスコ・サクラーティ(第三幕の執政官の場のシンフォニアは、いずれもサクラーティの1641年作『偽の狂女』にも含まれる)の手が介入している。モンテヴェルディ学者の一致した見解によれば、少なくとも最後の場面と、[ポッペアの夫] オットーネの歌唱部分は、単独もしくは複数の誰か別人(おそらくはサクラーティ)の作である。モンテヴェルディが彼らの仕事を監督し容認したか否かは明らかでない。
いやはやどうにも散々な言われようである。
上に引いた文章は1993年12月8日、ロンドンのクィーン・エリザベス・ホールでの『ポッペアの戴冠』演奏会形式上演の際、プログラムに掲載されたティム・カーターの解説から "The Sources for 'Poppea'" の一節である。
当日はジョン・エリオット・ガーディナーとその手兵による清冽無比の演奏と、シルヴィア・マクネア(ポッペア)、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(オッタヴィア)らの絶妙な歌唱に酔いしれるばかりで、正直なところパンフレットの詳細にまで目が通しかねた。生まれて初めて聴く『ポッペア』のあまりの美しさにただもう陶然となってしまって、この宵の演奏が珍しくナポリ版に拠ってなされたことの意義にもまるで気づかず仕舞いだったのである。
四年後の1997年3月に今度は東京室内歌劇場公演で若杉弘指揮による歌舞伎仕立ての『ポッペア』を再見したとき、改めてモンテヴェルディの凄さに触れて終幕で涙が滂沱として止まらなくなった。そこで帰宅後ふと思い立って書棚からロンドン公演のプログラムを取り出し、初めてその内容に詳しく触れて愕然としたものである。
小生の居合わせたロンドン公演は実況録音され、ほぼそのままの姿でアルヒーフから三枚組CDとなって発売された。上記のティム・カーターの文章もその解説書に丸ごと再録されているので、今でも容易に読むことができる。
とにかくショックだった。あの奇蹟としか思えぬ終幕の気高い愛の二重唱がモンテヴェルディの作ではないなんて! あたかもそれは『フィガロ』の"Dove sono" や『トゥーランドット』の "Nessun dorma!" が誰か別人の作だと聞かされたようなもの、といえばわかっていただけようか。ましてそれが生の舞台で感涙に咽んだ直後だっただけに尚更どうにも承服できない気分だったのだ。そんなことってあるものか、と。
(明日につづく)