未明から凄まじい驟雨となり、そのまま降ったり降りやんだりの状態。時おり薄日が射すと、ぬめっと湿った空気が肌に纏わりつく。台風の影響なのだそうで、おまけに一両日中に関東にも接近するというから堪らない。
こういう鬱陶しい日には心静かにサティでも聴いて過ごそうと思いつく。先日たまたま手にした「ソクラテスの死」が余りにも純度の高い音楽だったので、久しぶりにその全曲を耳にしたくなったのだ。
ソクラテスの生涯をドラマ化する、といってもサティの企てはおよそ劇的な舞台とは無縁だ。プラトンの『饗宴』『ファイドロス』『ファイドン』のテクスト(の仏語訳)にそのまま付曲するという意表を突くやり方で、あらゆる感情を排してひたすら淡々とそっけないまでに冷静に哲人の生と死が歌われる。
にもかかわらず、なのか、だからこそ、なのかは微妙なところだが、通して全曲を聴けば誰もが静かな感動を禁じえない。低音で規則的に時を刻んでいた伴奏の音型が最後に速度を緩め、心臓の鼓動が消え入るように途絶えて終わる。声高に語られないだけ余計に、ソクラテスの死の重さ、無念さ、取り返しのつかなさが胸をうつ。
エリック・サティ:
交響的ドラマ 『ソクラテス』*
六つの夜想曲
メヌエット 第一番
テノール/ジャン・ベリアール*
ピアノ/ビリー・エディ
1993年8月26~27日、ポワシー劇場
Timpani 1C1020 (1993)
もともと四人の女声と管弦楽(またはピアノ)のために書かれているが、サティの生前からその指示どおりになされた演奏は多くない。声部が重なり合う箇所がないので歌手ひとりで充分に事足りるからなのだ。男声で歌われることだって少なくない。このCDはそうした例として出色のものだ。
かてて加えて、ここで聴ける演奏には格別の思い出がある。同じ歌手とピアニストの実演に触れたことがあるからだ。1997年10月、パリのカンカンポワ通りから横手に入ったところにあるモリエール座という小屋で同じ顔触れによる「ソクラテス」を聴いた。前日に新聞の告知でたまたま目にし、なんの予習もせずいきなりこの曲に出くわした。ベリアール氏は小太りで禿頭、髭を蓄えた風采がソクラテスそっくりなのにまず吃驚。その冴えない姿とは裏腹に声はたいそうリリカルな美しいテナーなのでまた吃驚。抑制の利いたピアノの素晴らしさといったら! 初めて生で「ソクラテス」に触れ、その底知れぬ力に打ちのめされた忘れがたい体験があったのである。
エリック・サティ:
造形的ポーズ 『メルクリウスの冒険』
交響的ドラマ 『ソクラテス』*
メゾ・ソプラノ(アルキビアデス)/ダニエル・ミレー*
ソプラノ(ソクラテス)/アンドレア・ギオ*
ソプラノ(ファイドロス)/アンドレ・エスポシト*
ソプラノ(ファイドン)/マディ・メスプレ*
ピエール・デルヴォー指揮
パリ管弦楽団
1971年9月、パリ
EMI France 5 69686 2 (1990)
もうひとつ、サティの指示どおり四人の女声が分担してテクストを歌い分けた管弦楽伴奏による原典版「ソクラテス」も聴いておこう。実は小生がこの曲に初めて接したのはこのデルヴォー指揮のLPだったのである。申し分のない上質な演奏だし、パリ管弦楽団の繊細な音色にも心ときめくのだが、デルヴォーの丁寧なタクトとメスプレの美声をもってしても「ソクラテスの死」の崇高さの表出においてロザンタル=モントゥイユ盤には及ばないのはなぜだろう。