日本における近代音楽の創始者、山田耕筰(1886-1965)は、若き日の留学時代の思い出を次のように記している。
その年のベルリンはロシャン・バレェでも賑はつた。その公演はどうした訳か、ティァガルテンといふ公園にある、王立クロル歌劇場で行はれた。
ニジンスキィにもカルサヴィイナにも息を奪はれた。バァクストのデコォルにも眼を奪はれた。が、はじめて耳にし得たドビュッスィの『牧神の午後』や、ストラヴィンスキィの作品に触れ得た喜は大変なものだつた。
「その年」すなわち1912年の暮、バレエ・リュスは11月21日から12月20日までベルリンの新王立劇場(クロールオーパー)で連続興行を行った。ニジンスキー振付・主演の『牧神の午後』は同年5月にパリで初演されて間もない新作であり、ベルリンでもこれが初上演だった(12月11日以降全7回上演)。ベルリン王立音楽院在学3年目(最終学年)を迎えた山田は、すでに卒業作品の作曲も終え、いささかの安堵感と将来への夢と不安を胸に抱きながら劇場へと足を運んだことであろう。
十年以上前に書いた文章なので引くのがいささか恥ずかしいのだが、セゾン美術館の「ディアギレフのバレエ・リュス」展カタログ(1998)に寄せた拙稿「ニジンスキーを観た日本人たち」の冒頭の一節である。
思えば身の程知らずで引き受けた執筆だった。薄井憲二、山口昌男、海野弘、鈴木晶、沼野充義といった錚々たる専門家に伍してバレエ・リュスを論ずるなんて、そんな向こう見ずな企てにどうして挑もうと考えたのか。果たして勝算はあったのか。今となってはそのときの心持ちはもう思い出せない。
とにかく準備期間の三か月間、ただもう必死で図書館と古書店に足を運び、マイクロフィルムや新聞縮刷版と格闘した。上に引いた山田耕筰の鑑賞記録は唯一、その当時も容易に手に入った自叙伝に記されていた一節なので、「こういう記録をあれこれ渉猟すれば、なんとか書けそうだ」と、一縷の望みを託した文章である。
このたび、この拙論を大改訂した。そもそも留学中の山田耕筰はベルリンで何をどう学んでいたのか。バレエ・リュス主宰者ディアギレフにとって、このベルリン公演はどのような意義をもっていたのか。そのあたりをじっくり掘り下げてみた。なので、今回の連載では同じこの引用に辿り着くまでに六千字近くを費やしてしまった。
連載「
バレエ・リュスと日本人たち」第三回「
ベルリンの青春」(上)がつい先ほどアップされた(
→ここ)。長々しくてPC画面上では読みづらいのは承知のうえで敢えて詳述した。鬱陶しい真夏の夜に恐縮だが、お暇な折りにでも冷房のきいた部屋で是非ご一読を。