六月上旬に仕上げた絵本に関する小論が刷り上がって今日届いた。
標題は「
光吉文庫のロシア絵本について」。東京・調布にある白百合女子大学の児童文化研究センターの依頼で同センターの研究報に寄稿したものだ。
「光吉文庫」とは絵本研究・翻訳家の
光吉夏弥(みつよしなつや 1904-1988)が遺した児童文学・絵本・研究資料など一万三千点にも上るコレクションを指し、1999年に光吉家から同センターに寄贈されたものである。
光吉夏弥は稀代の趣味人=研究家で、戦前には専ら舞踊と写真の評論で知られ、とりわけ和洋の舞踊に通暁した目利きとして雑誌『舞踊サークル』や藤蔭静枝の『藤蔭会二十年史』の編集にも深く係わっている。
児童文学の分野では早くから海外絵本の収集に努め、戦時中の1942年という困難な時期に筑摩書房からマンロー・リーフの『花と牛』(のちの『はなのすきなうし』)とイネス・ホーガンの『フタゴノ象ノ子』という二冊のアメリカ絵本を翻訳刊行した。同じ年、やはり筑摩書房から中国を舞台としたクルト・ヴィーゼの『支那の墨』という忘れがたい絵物語も出している(中野重治がこれを愛読したという)。
敗戦後の1953年には石井桃子と組んで絵本シリーズ「岩波の子どもの本」の編集に携わった。同シリーズの『ひとまねこざる』『みんなの世界』『はなのすきなうし』『山のクリスマス』『アルプスのきょうだい』『村にダムができる』『九月姫とウグイス』『おかあさんだいすき』『どうぶつ会議』『ナマリの兵隊』『もりのおばあさん』、そして『ちびくろ・さんぼ』に子供の頃に親しんだ人は、誰もが皆それとは知らず光吉夏弥の達意の日本語で育ったことになろう。ほら、あなたもそうですよ。
その光吉の遺品がなぜ小生の興味を惹いたか。五年前に展覧会『幻のロシア絵本 1920-30年代』カタログに書いた拙文から引こう。
戦況が悪化の一途をたどる1943(昭和18)年、雑誌『生活美術』9月号の「絵本特輯」において、舞踊評論家で絵本にも造詣が深い光吉夏弥は、我が国の絵本の「本当の進展はこれから」という立場からその問題点を指摘し、果敢にもアメリカとソ連の成功例を引きながら、そこから何を学ぶべきかを的確に言い当てている。
「絵本のもつ教へ知らせる要素、啓発宣伝的な効用は、今日の如き時局下で一層高く発揚されることが必要であらうか、それについて思ひ起されるのは、五ケ年計画当時、ソ聯でとられた盛大な絵本政策である。
あのころ出た、粗末な紙に刷られた薄い簡単な絵本、ちやうど昨年日本でも出た四銭絵本と同形式の、しかし質的にはずつと高かつたソ聯絵本は、短い期間に何百種、何千万部といふ大量を、どつと流し出した劃期的な生産の旺盛さで、世界を驚かしたものであつたが、それらはすべてただ一つの目的──子供ばかりでなく、おとなも含めてソ聯全大衆の啓発のためになされたのであつた。」
光吉はさらに、ダム建設や鉄道敷設、集団農法のあり方や新聞製作の実際など、ソ連では「凡ゆる知識的なものについての絵本が、ふんだんに提供された」と語ったあと、最後に次のように付け加えることを忘れなかった。
「絵本がこのやうに盛大な国家目的への動員を持つたことはかつてないことであり、絵本出版がこれだけ計画的になされたことも他に例をみないことであるが、しかもそれらがいはゆる計画絵本にありがちな生硬平板なものに堕することなく、絵本本来の魅力を本質的に持つたものであつたことは記憶されなければならない。」
これを執筆した時点(2003年末)では光吉さんの遺品がどうなったか皆目わからなかったのだが、その後とある知人から上述の「光吉文庫」の存在をご教示いただき、「ひょっとして」と予測したとおり、そこにロシア絵本が六十一冊も含まれるのを確認した。これは芦屋に遺された吉原治良旧蔵の八十七冊に次ぐ、戦前に形成され現存するロシア絵本としては二番目の大コレクションである。幸い許可が得られて悉皆調査が叶ったのだが(2006年11月)、その後なんの報告も提出しないまま年月が過ぎ去り、我が身の怠慢さに忸怩たる思いでいたところ、このたび同センターから懇切なお誘いをいただき、判明した事実をごく手短に書き綴った次第。
いずれ近い将来、知り得た事実をきちんと纏めて正式な報告書として提出せねばなるまい。