(承前)
たとい忘れられた作家であっても、一度でも活字になった文章はまるきり失われてしまうということはない。五十年後、百年後に誰かがその価値に気づいて発掘する可能性が残されているからだ。美術の場合はどうか。生前それなりに評価された画家ならば、どこかの美術館が作品を収蔵していようし、熱心なコレクターや画商が躍起になって発掘に努めるという例も少なくない。
映画もそうであるはずなのだが、長く消耗品扱いされてきた日本映画はネガはおろか上映用プリントすらが廃棄されてしまった。なにしろ戦前の『キネマ旬報』ベストテン上位のフィルムが軒並み失われてしまっているのでは、日本映画史をきちんと記述することはもはや不可能だ。それではならじという危機感から、まがりなりにも国立のフィルムセンターが存在することは周知のとおり。
音楽の場合は他のいずれのジャンルとも事情が異なる。鳴り物入りで初演された著名な作曲家の新作も、それらが「現代音楽」である限り、再演の機会は容易に訪れないし、録音されて後世に残される可能性も低い。
小生の師匠でもあった小倉朗さんを例にとるならば、民話に拠る彼の唯一のオペラ『寝太』は、1957年の初演後ほんの数回辛うじて音になった(1968/NHK収録、1977年/北海道二期会上演)きり上演の機会は途絶えているし、晩年のチェロ協奏曲は岩崎洸による初演(1980)のあと一度たりとも再演されていないはずだ。自作に厳しかった小倉さんが「これだけは愛着がある」と再三語っておられた朗読付きの音楽物語「マリー・ホール・エッツの絵本による 『
海のおばけオーリー』」(1963放送初演)に至っては、亡くなったあとの追悼演奏会(1991)が、後にも先にも唯一これを耳にする機会となった。無論これらの楽曲は出版に至っておらず、作曲時の手稿が存在するだけの、限りなくフラジャイルな存在に留まっているのである。いつかこれらを再び耳にする機会があるのだろうか。
それでも小生は心配していない。小倉さんの手許にあった楽譜のすべてがご遺族から日本近代音楽館へと寄贈されているからだ。いつの日か心ある演奏家(小倉さんなら「耳のいい奴」というだろう)がその価値を再発見する機会をじっと待っている。それが十年後なのか、五十年後なのかは誰にもわからない。その仕事が(すなわち楽譜そのものが)後世に伝えられることが肝腎なのだ。作品がある限り、再評価はいずれやってくる。
昨日の「
日本近代音楽館、閉館へ」のニュースは、小生がこれまで密かに抱いてきたそうした「安心」を木端微塵に打ち砕くものだった。
(次回につづく)