昼過ぎに連載「バレエ・リュスと日本人たち」(これまでの分は
→ここ と
→ここ)の第三回分(ベルリン留学時の山田耕筰を追ったもの)をやっと脱稿し、先方に送ってホッと一息ついたら、俄かに眠気が襲ってきたので外出の予定は取りやめ。「こんな暑い日は昼寝に限る」とばかりに横になったら、疲れが溜まっていたのだろう、昏々と眠り続けてそのまま夕方になった。
家人がたまたま買ってきた朝日新聞(朝刊)を開いて愕然とする。「
日本近代音楽館、閉館へ」とある。
明治以降の日本のクラシック音楽資料を専門に収集・保存する唯一の資料館、日本近代音楽館(東京都港区)が来年3月閉館することになり、約50万点の所蔵品を明治学院大学(東京都港区)が引き取ることで24日、両者が合意した。展示、公開を含めた有効活用の機会を今後検討する。
同館は87年、故芥川也寸志や故安川加寿子らによる運動を経てオープン、先頭に立った音楽評論家の遠山一行さん(87)が自費を投じて守り続けてきた、山田耕筰「赤とんぼ」や武満徹「ノベンバーステップス」のほか、黛敏郎や三善晃ら明治以降の洋楽運動を支えてきた作曲家の自筆譜の多くを所蔵する。
管理・運営を続けていくのが難しくなった遠山さんから相談を受けた、同大教授で音楽学者の樋口隆一さんが受け入れの道筋をつくった。
遠山さんは「日本の作曲家たちの足跡が、次世代に受け継がれ、新たな創造の礎になれば」と話している。
日本近代音楽館にはいつもお世話になっている。1998年にセゾン美術館の「ディアギレフのバレエ・リュス」展カタログに寄稿するため、ここで教えを受けながら山田耕筰や大田黒元雄のバレエ・リュス体験を調べたときから、同館が所蔵する潤沢な文献資料の恩恵を蒙り続けている。今日仕上げた原稿だってそうだ。
少し前に英国の研究誌に「プロコフィエフの日本滞在」について原稿を寄せた折りも、プロコフィエフと交流のあった音楽好きの富豪、徳川頼貞の足跡について、ここに蓄積された書籍・雑誌・写真資料にあたることで、短期間の調査で成果を挙げることができた。プロコフィエフと大田黒元雄夫妻が並んで写った貴重な写真を公表できたのも、ご遺族との仲介の労をとって下さった同館のご尽力のお蔭である。
ここに在職される林淑姫さん以下のスタッフが、小生のような在野のアマチュアをも分け隔てせず、懇切丁寧に対応され、その豊富な知見を惜しみなく提供して下さるのにも感謝している。ここはさながら「日本近代音楽史の正倉院」であり、しかもこの宝蔵は広く万人に向け公開されているのである。
日本の近代音楽に関する資料収集はまことに心細い状況である。山田耕筰、清瀬保二、橋本國彦、深井史郎といった重要な作曲家についても、大半の楽曲は初演されたきり顧みられず、出版される機会もなく、手書きの総譜やパート譜が遺族や関係者の許にたまたま遺されているのみという有様だった。もしも一旦それらが失われたら、いかに重要な作品であっても蘇演する機会は永遠に失われ、再評価の可能性は全く閉ざされてしまう。過去を失ってしまったら現在もまた存在しない。まして、未来においておや。
こうした許しがたい事態に一石を投じたのが音楽批評家の遠山一行さんである。遠山さんは1966年、私財を投じて「遠山音楽図書館」(遠山音楽財団付属図書館)を開設し、山田耕筰の遺品の受贈・整理・公開を手始めに、音楽資料の収集活動を開始した。1987年からは「日本近代音楽館」に発展改組し、いっそう日本の近代音楽に特化した資料図書館としての性格を打ち出して今日に至っている。
近年ようやく勃興してきた日本近代音楽の復活プロジェクト、例えばアマチュア・オーケストラ「オーケストラ・ニッポニカ」の一連の演奏会(菅原明朗、大澤寿人、深井史郎ほか)や、二十二集まで出た Naxos のCDシリーズ「日本作曲家選輯」などの動きは、日本近代音楽館のこれまでの営みに実に多くを負うているのである。
音楽遺産の継承という文化の根幹に関わる営みはそれこそ「国家的」プロジェクトに相応しかろうが、それが半世紀近く、ひとりの批評家の危機意識と情熱と私財によって専ら支えられてきたことに対し、私たちは深々と頭を垂れるとともに、こうした悲惨な状況に一顧だにしようとしないわが文化行政の無為無策ぶりに強く憤らねばならない。私たちはそういう恥ずべきニッポン国の住人なのである。
(明日につづく)