若杉弘さんの死はじわじわとボディブロウのように効いてくる。
日本という異質な土壌にオペラを移植するのに尽力した功労者の系譜を辿ると、古くは山田耕筰、藤原義江、マンフレート・グルリットがおり、近くは三谷礼二と若杉弘が特筆すべき存在である。若杉さんの偉かったのは19世紀のグランド・オペラに偏重せず、その発祥から今日までの歌劇史の全体を視野に収め、そのすべてを愛し、理解したうえで日本人にその魅力を余すところなく伝えようとしたところにある。
悲しいことに日本のレコード会社は若杉さんのこの気宇壮大な企てにほとんど寄与してはおらず、その業績をのちのち検証することは至難の業である。小生の知る限りでは團伊玖磨の『夕鶴』、別宮貞雄の『有馬皇子』などの日本作品のほか、オペラ指揮者としての若杉さんの仕事はほとんどディスクに刻まれていないのである。なんという損失であろうか。
ここに紹介するのは若杉さんがオペラを振った数少ない音源である。しかも演目は彼が愛してやまなかったプーランクの『人間の声 La Voix humaine』、それも嬉しいことに若杉さんご自身が手掛けた日本語訳による演奏である。
[伊藤京子 マイ・フェヴァリット・ソングス] より
プーランク:
歌劇「声」
ソプラノ/伊藤京子
若杉弘指揮
東京フィルハーモニー交響楽団
1971年11月29日、東京、NHKスタジオ (NHK芸術劇場で放映)
ビクター VICC-60257/59 (2001)
この演奏の何が卓越しているかといえば、歌われる日本語が完全に血肉化していて、まるで「日本のオペラ」のように聴こえること。ジャン・コクトーが日本語でオリジナル台本を書き下ろし、それにプーランクが付曲したのではないかとすら思えてくる。伝説的な伊藤京子の歌唱の素晴らしさも勿論あるのだが、若杉さんの苦心の翻訳がここで魔法のように奏功したのは疑いない。耳に日本語として自然に響く独白(いうまでもなくこのオペラは主役が電話の受話器に向かって独り歌い続ける)が、このオペラを完全に「私たちのもの」にしているのである。歌唱にぴたりと連れ添う若杉さんの伴奏指揮の見事さも特筆に値しよう。
若杉さんの回想を引く。
また何年か経って、こん度は東京室内歌劇場が、伊藤京子さんを客演にお迎えして。〈声〉 を上演しようということになった。幸い [以前に砂原美智子が歌ったときの]
鈴木松子さんの訳詞もあることだし、とりわけ伊藤さんが大乗気だった。
そしてそろそろ準備を始めようかという頃だった。年の暮ベートーヴェンの第9交響曲の数回の演奏会を前にして、ぼくはひどい風邪をひき、無理がたたって肺炎になるぞと病院に入れられて了った。そして演奏会は大先輩近衛秀麿先生が心よく引きうけて下さった。さて熱も下がり、次第に元気がもどって来ると病院とはさても退屈なものである。演奏会は近衛先生指揮のもとで続いているし、当方は体温計と注射の時間以外なにもすることがない。そこでふと手許にある 〈声〉 の譜面が気になり出した。少し日本語をいじってみようかと鉛筆を持ったのが始まりである。そこ、ここと手をつけているうち、これは一層のこと始めから全部新らしく作ってみようかと思うようになった。幸いすでにひとつのプロダクションを体験しているから、ドラマと音楽のかけひき、とりとめのない言葉と途切れ途切れの音型の合体には自信があった。そこで、この情景、あの場面と案の浮んだ部分をわりと素早く訳していった。つまりこの訳詞は築地聖路加病院退院の日に完成したのである。
幸い第一生命ホールでの公演 [若杉弘のピアノ伴奏]
は、伊藤京子さんの名唱によって大きな成功をおさめ、伊藤京子さんはこのときの演唱で 〈毎日芸術賞〉 を受賞された。そしてそれは、新しくNHKのTV番組として広く放映され、そののち日本全国、多くの方々がこの新しい訳で歌って来て下さった。皆さんが歌い良いとお手紙を下さる。そのはずである。[東京室内歌劇場公演で併演した 〈電話〉 の作者で]
現代の名オペラ作曲家メノッティ氏のすばらしいアドヴァイスがあったからだ。
"ぼくのオペラを日本で演るときは、日本語として自然になるように言葉のリズムを変えてくれよ! 同じ和音のなかなら音まで変えてもかまわない。ぼくはしゃべっているように歌ってほしいんだから。"
なるほど、それでわかった! 「しゃべるように歌ってほしい」──それこそオペラ歌唱の極意であり、コクトーとプーランクがこの作品で実現しようと腐心したところにほかならなかったのだ。