目隠しテストの要領でいきなりこのピアノ協奏曲を聴かされたなら、ラフマニノフの知られざる曲、と言ってしまいそうだ。
近年モスクワ音楽院のアーカイヴで発掘された未刊の協奏曲で、第二番と第三番の間に作曲されながら革命前後の動乱で失われたと信じられていた…などと尤もらしく講釈されたなら、誰もが易々とそう信じてしまいそうだ。それほどまでに美しく感傷的で、ラフマニノフに酷似した作風なのだが、それにしては半音階的な進行が頻出し、どこかしらメトネルや、ひょっとするとスクリャービンの影響も谺するような…。
こういうアルバムだったのである。
イサイ・ドブロウエン:
ピアノ協奏曲 嬰ハ単調 作品20*
ユーゲント=ソナタ 作品5b
ソナタ=スカースカ 作品5a
ソナタ 第二番 作品10
ピアノ/ヨルン・フォスハイム
アレクサンドル・ドミトリエフ指揮
サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニア・アカデミー交響楽団*
2001年9月11日、サンクト・ペテルブルグ、フィルハーモニー大ホール*
2002年4月15日、オスロ、ソフィエンベリ聖堂
Simax PSC 1246 (2004)
イサイ・ドブロウエンと聞いて、どこかで耳に憶えのある名だと思った方もおられよう。飛行機事故で夭折した閨秀ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴーの協奏曲録音(ブラームス、ショーソン)の伴奏指揮者だからだ。ロシア・オペラ好きなら、西側で初の『ボリス・ゴドゥノフ』全曲録音(ボリス・クリストフが歌った最初の録音)の指揮者としてドブロウエンの名を記憶しているはずだ。R=コルサコフの「シェエラザード」の素晴らしいディスク(
→これ)を憶えている人もおられようか。
イサイ・ドブロウエン(ドブローウェン) Issay Dobrowen は1891年にニジニー・ノヴゴロドで生まれたロシア人。ロシア名はドブロヴェイン Исай Александрович Добровейн (本名:イツホク・バラベイチク Ицхок Зорахович Барабейчик)というらしい。ボリショイ劇場でシャリアピン主演の『ボリス』を振るなどしたが、革命政府とソリがあわず、1923年に祖国を去った。
若い頃はピアニスト兼作曲家として将来を嘱望された人で、ゴーリキーと親しく、レーニンの前でベートーヴェンの熱情ソナタを弾いたこともあったそうな。亡命後はフリッツ・ブッシュに招かれてドレスデンで『ボリス・ゴドゥノフ』のドイツ初演に尽力し、オスロ、ブダペスト、サンフランシスコ、イェーテボリなどで指揮者として活躍。
1891年生ということはプロコフィエフと同い年。ただしドブロウエンは革新性とは無縁の古いタイプの音楽家であり、作曲家としては全くの後期ロマン派。そのあたりに指揮者への転身の理由があろう。先ほど聴いたピアノ協奏曲は1912年から作曲に着手しながら、指揮活動多忙の故に遅々として仕上がらず、1926年ドレスデンでようやく完成。自らのピアノで同年ドイツのハレで初演された。この年はバルトークの第一ピアノ協奏曲、ベルクの抒情組曲ができた年でもあり、ドブロウエンの協奏曲は出し遅れの証文よろしく、さぞかしアナクロニスティックな代物と映ったろう。
(まだ書きかけ)