MGMに仕事で出向く最初の日、私はバスに乗って行った。正確に言うなら二台でだ。時は1946年。弱冠十六歳の私は、高校も卒業しないうちに、誉れ高い腕利きの匿名集団「編曲家・管弦楽編曲家」の一員になろうとしていた。仕事はといえば、スタジオの契約作曲家が拵えたスケッチやピアノ用パート譜に手を加え、オーケストラ曲の体裁を整える作業である。
三時にいつもの授業の終了を告げるベルが鳴るや、三時十分発のバスに間に合うよう、私はひとブロック先までひた走った。時間の猶予は少なく見積もって三秒。そのあとの十五分間で、乱れた息を整え、着崩したセーターの釦を留め、ルーマニア女性がキャベツを買うとき使うような紐製バッグに、教科書と紙の束を押し込んだ。最初のバスはまずは高級な乗物だ。車体はつややかな赤で、ベヴァリー・ヒルズを猛スピードで突っ走った。バートン・ウェイとロバートソン・ブールヴァードの角で下車、二台目のバスを待つが、連絡はすこぶる悪い。やって来たのは緑色の箱形バス。呆れるほどガタガタ揺れた。おぞましい模造皮革製の座席はボロボロに破れ、そこにいつも決まって二色のローファー・ジャケットを着た誰かが坐り、ミッキー・スピレインを読んでいた。バスはのろのろと進み、乗車とも降車とも表示のない停留所に止まる。この車はポンコツの肺病やみだ、そう私は思ったものだ。
当時のMGMではミクローシュ・ローザ、ハーバート・ストザート、ブロニスラフ・ケイパー、レニー・ヘイトン、ジョージー・ストール、スコット・ブラッドリー、デイヴィッド・スネル、アドルフ・ドイッチ、デイヴィッド・ラスキンがスタジオ専属の契約作曲家として名を連ねていた時代である。ミクローシュ・ローザ以外は半ば忘れられた人ばかりだが、例えばケイパーは『リリー』の、ストールは『錨を上げて』の音楽を担当しているし、ドイッチは『バンド・ワゴン』『オクラホマ!』など多くのMGMミュージカルで音楽監督を務めた、その道の「巨匠」である。この錚々たる陣容を擁するMGMスタジオ音楽部門に、十六歳の少年は編曲助手として雇われることになった。
スタジオ正門には制服を着た門番がひとりひとり入場者を誰何している。
私が到着するなり門番はその日の人名リストに目を走らせ、スタジオ専属作曲家のひとり、ジョージー・ストールのところで仕事の約束があるとわかると、すんなり私を通してくれ、前もって音楽図書館に出向いて、書類を作るようにと指示した。
大通りの左側を走る道沿いに、音楽部のすべてのバンガローが犇集していた。これらの小屋は実際には荒れ放題で、仕切扉はバタつき、ペンキも剥がれていたのだが、十六歳の私の眼にはどれもプチ・トリアノンのように見えた。やがて音楽図書館が現れた。天井の高いいくつもの大部屋からなる建物で、それまでスタジオのために書かれた楽譜でどの部屋も一杯だった。ソング、スコア、編曲譜、効果音楽、アカデミー賞受賞作からフットボールの行進曲まで。作曲家たちのありとあらゆる草稿があった。[中略]
丸天井の大部屋に隣接した数室が写譜オフィスだった。1946年の時点では少なくとも二十人の写譜スタッフが雇われており、誰もが日がな一日、次々に運び込まれる新作をせっせと処理していた。ここを統括するのは三人いた司書のひとりで、アーサー・バーグという人だった。
「君が仕上げた分は私に渡すように」と彼は言った。「私がそれを写譜し、君の給料簿に記入する。すると金が支払われるというわけだ」
(不定期連載~つづく)