先日たまたま東京駅の書店でこんな文庫本が新刊で出ているのに気づいた。
徳永康元
ブダペストの古本屋
ちくま文庫
2009年
懐かしさで胸が一杯になる。
1982年に恒文社から単行本として出たとき、心躍らせて読み耽った一冊だ。
ハンガリー文学の第一人者として、モルナールの『リリオム』や『パール街の少年たち』、バラージュの『ほんとうの空色』の名訳で知られるが、小生が徳永先生の名を深く胸に刻んだのはこの驚くべきエッセイ集によってである。
当代屈指の碩学にして稀代の読書家でありながら、無欲恬淡として殆ど著作らしい著作を残そうとしない徳永先生に業を煮やして(?)、編集者や教え子たちが掲載誌を探索し、先生が時たま寄稿したエッセイ群を一冊に纏め上げた本だ。たしか先生の古稀のお祝いに刊行されたのではなかったか。
築地座の舞台で『リリオム』を観たのを契機にドイツ文学からハンガリー文学に鞍替えした徳永青年は、独習したハンガリー語を頼みに日洪交換学生として1940年2月ブダペストに到着する。
すでにナチス・ドイツはポーランドとフィンランドに攻め込み、英仏はドイツに宣戦布告し、ソ連はバルト三国を力づくで併合するなど、ヨーヨッパ全体に戦火が拡がるのは不可避という状況下での、いわば絶体絶命のハンガリー留学だった。しかも到着早々に東京から届いたのは父の訃報。徳永青年は孤立無援の精神状態でブダペスト生活の第一歩を踏み出す。
『ブダペストの古本屋』には、大戦前夜から戦中期にかけての青春の思い出がなんの衒いもなく淡々と、薫り高い名文で綴られている。そのなかで誰もが度肝を抜かれるのは、ブダペスト到着から半年ほど経過した1940年10月8日、亡命を決意したバルトーク夫妻の「告別演奏会」を生で聴いたという記述であろう。
徳永先生は作曲家の柴田南雄と従兄弟同士にあたり、早くから音楽に親しんでいたので、バルトークに関心があるのは不思議でないのだが、それにしてもなんという奇遇、なんという強運であろう。期せずして20世紀音楽史上に名高い歴史的瞬間に居合わせてしまったのである。
このバルトークの演奏会の思い出を徳永先生から直接うかがったことがある。
正確な日付が思い出せないのが残念だが、1990年か91年のことだと思う。先生の教え子だった知人の編集者A氏が小生の徳永先生への思慕の念を知って、親切にも「紹介してあげよう」と新大久保の先生のご自宅へ連れて行ってくれたのだ。
招じ入れられた別棟の書庫は文字通り万巻の書物で埋まり、三人が椅子に坐るともう立錐の余地はなかった。ちょうど半世紀前のバルトークの演奏会の様子をまるでつい先日のことのように、じかに言葉で語り聞かされるのは、この上なくスリリングな体験だった。先生の口調は文章と同様、実に淡々としていて、それが却って記憶のかけがえなさを際立たせた。
この晩、小生はいい気になってついつい長居してしまった。話はいつしか映画談義へと転じ、無類のシネフィルとしても知られる徳永先生の面目躍如、遠い昔に観た山中貞雄の『小判しぐれ』(1932)の字幕の流麗さ、その呼吸がいかにリズミカルだったかを語る先生の口吻は、八十歳近い年齢を微塵も感じさせず、永遠の映画青年のそれだった。
この頃になっても徳永先生は年間百本以上の映画をご覧になっていた。それも旧作を再見して懐かしむばかりでなく、例えば陳凱歌の『黄色い大地』(1984)のような新作にも好んで足を運ばれ、「あれはいい」と語気強く推奨なさっていた。フレッド・ジンネマン監督『氷壁の女』(1983)を観ていたら、シュトロハイムの『アルプス颪』(1919)を思い出した、などと事もなげに語られるあたりは(三歳年上の)淀川長治に勝るとも劣らぬ年期の入りよう、端倪すべからざる造詣の深さなのである。
その後も上映会の折りに何度かお姿をお見かけした。いつも背筋をしゃんと伸ばし、手には愛用の風呂敷包み。中身は勿論その日に収穫した古本に違いない。
最後にお目にかかったのは赤坂の草月ホールでの上映会だったと思う。
ジャック・ロジエ監督のドキュメンタリー『ジャン・ヴィゴ』(1964)終映後にご挨拶すると、「ディタ・パルロというひとが登場したでしょ。昔観た『ハンガリア狂想曲』という映画に主演していて、とても好きな女優なので、それで観に来たんです」とおっしゃる。『アタラント号』の彼女しか知らない新参者の小生は返す言葉もなく、ただただ頭を垂れるしかなかった。