母方の叔母の葬式があるので川崎まで出向いた。
成人してからは殆ど親戚づきあいがなかったので、四年前に父が亡くなったとき、この叔母とも三十年ぶりに再会した。そのときはまだ元気そうだったのだが、その後ルームメイトの友人が急逝してからはめっきり衰えて、神奈川の介護付老人ホームで暮らしていた。心筋梗塞だったという。享年八十二。
戦後に成人した叔母は逸早く英語を身につけ、佃煮屋の親元から独立して外資系の出版社に務めた。キャリアウーマンのはしりである。
同じく英語に堪能な友人と知り合い、意気投合して同居した。いずれ劣らず歯に衣着せぬ辛辣な毒舌家だったが、二人は不思議とウマが合って半世紀にわたって生活を共にした。血を分けた姉妹以上に息の合った間柄は傍で見ていても羨ましいほどで、ちょっと戦前の石井桃子と小里文子、あるいは中条百合子と湯浅芳子の関係を彷彿させなくもない。
大学に入った頃、一度だけ二人の暮らすマンションにお邪魔したことがある。
どんな話題が出たのかすっかり忘れてしまったが、ご両人の機銃掃射のような早口と、森羅万象に及ぶ談論風発には圧倒される思いだった。
小生の音楽好きを知ってか、叔母は不意に「チャイコフスキーの交響曲は何番まである?」と問うてきた。もちろん曲数は六曲で、番外の「マンフレッド交響曲」は数に入らないから、「六番まででしょう」と答えると、してやったりという表情で彼女は「あら違うわ、七番までよ」と言い放った。そして背後のレコード棚を漁ると、勝ち誇ったように一枚の外盤LPを差し出した。
なんと、そこには確かに
Tchaikovsky: Symphony No. 7
と記されているではないか(
→これ)。ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏。"World Première Recording" とある。
すっかり暗くなった頃、ようやく話題も尽きて辞去しようとすると、叔母がそのLPを土産にくれた。
帰宅してから聴いてみると、確かにチャイコフスキーらしい豪壮な曲。ただし後世の手が入っている。もともと「悲愴交響曲」に取りかかる前に着手し、未完のまま放置されていた草稿を20世紀半ばに音楽学者ボガトゥイリョフが苦労して四楽章に纏めたものという。
オーマンディ&フィラデルフィアの演奏はさすがに堂に入っていて、ちゃんとチャイコフスキーの響きがする。以来、何度このLPを繰り返しかけたことだろうか。
あれから幾星霜。そのアルバムは今でも拙宅のレコード棚のどこかにあるはずだ。亡くなった叔母を偲んで、久しぶりに音にしてみよう。これは彼女の形見なのだ。