デイヴィッド・キャラディンが撮影で滞在中のバンコクで急死した。自殺なのか、他殺なのか、事故死なのか、現時点ではまだわからないらしい。
友人たちの間で評価の高いTVシリーズ『燃えよ! カンフー』も観ていないし(下宿にTVがなかった…)、近年の『キル・ビル』も未見なので、弟のキース・キャラディンほど馴染はなかったけれど、マーティン・スコシージ(スコセッシ)監督の初期の佳作『明日に処刑を…』(1972)での演技が鮮烈だった記憶があるし、ハル・アシュビー監督『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(1976)でのタイトル・ロールも忘れがたい。そうそう、兄弟揃い踏み出演のウォルター・ヒル監督作品『ロング・ライダーズ』(1980)もたいそう渋い西部劇の秀作だったっけ。
デイヴィッドの父は言うまでもなく名優ジョン・キャラディンであり、その点ではジェーン&ピーター・フォンダ姉弟やヴァネッサ&リン・レッドグレーヴ姉妹と同様の境遇だったわけだが、彼の場合は「七光り」とはほど遠く、少年時代に両親の離婚があり、里子に出されたり、不良になって感化院に入れられたりと、順風満帆どころではなかった由。あの独立独歩というのか、孤高の人を思わせる面構えや、ちょっと近寄りがたい雰囲気は、波乱の生い立ちとおそらく無縁ではないのだろう。享年七十二。
ボリス・ポクロフスキーも亡くなった。こちらはまさしく功なり名遂げた末の大往生といえるだろう。享年九十七。
ポクロフスキーのことは先日たまたま再読したガリーナ・ヴィシネフスカヤの『ガリーナ自伝』にも縷々詳述されていた。スターリン時代を生き抜きボリショイ劇場復興の一翼を担って、彼女をヒロインとするいくつものプロダクションを手掛けた恩人として。
ポクロフスキーの凄いのは、そのボリショイの芸術監督の地位を擲って、自らの思うオペラを十全に実現できる「オルタナティヴな」場を求めて1972年、指揮者ロジェストヴェンスキーと組んでモスクワ室内歌劇場を創設したことだろう。由緒あるグランド・オペラとは対照的な小舞台による手づくりオペラを一から創り始めたのだから大した勇気だ。これは期せずしてほぼ同時期の巴里のペニッシュ・オペラや、わがニッポンの東京室内歌劇場の試みと軌を一にしている(取り巻く情勢はそれぞれ異なっていたのだけれど)。
彼の率いるモスクワ室内歌劇場の来日公演は何度か観た。ショスタコーヴィチの『鼻』と未完の『賭博師』、そして問題作『ラヨーク』。当たり狂言とされるホルミノフの『結婚披露宴』、それからモンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』も。最も忘れがたいのは、ストラヴィンスキーの『狐』の、当意即妙、目も眩むような舞台だった。
晩年にはせっかく新築した劇場が不審火で焼失するなどの不幸にも見舞われたが、不屈の精神で乗り切った由。先年モスクワを訪れた際は時期が悪くて実見は叶わず、新しい室内歌劇場の正面に立っただけで終わったのが残念。あと一週間いたらシーズンが始まり、『ペーチャと狼』上演に遭遇できたはずなのだが…。
アヴァンギャルド芸術の興亡を目の当たりにし、身の毛もよだつ暗黒時代を生き抜き、最後の最後まで演出家の自律性を貫き通したオペラ人の不屈の魂に心から讃辞を捧げたい。こういう硬骨漢がいるのがロシアなのだ。