それは毎年のように彼がパリに突きつけた何通もの挑戦状の一通に過ぎなかったのかもしれない。
1906年、サロン・ドートンヌで「ロシア美術展」開催。
1907年、オペラ座で「ロシア音楽祭」開催。
1908年、オペラ座でシャリアピン主演による歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」上演。
どれも彼がぜひとも紹介したかったロシア文化の精華であった。
自国が生み出した古今のあらゆる芸術に精通し、同時に、先進国たるフランスの現況にも目を光らせていた彼は、ロシアのどこが新しく、何がパリの人々を圧倒しうるかを正確に見抜いていた。
この次はこれだ、と心中で彼はひとりごちたに違いない。パリジアンはそれをオペラに付随する添え物だと信じ込んでいる。哀れな連中だ。ロシアの勇猛と典雅の粋を見せつけて、奴らの度肝を抜いてやるのだ。
とはいえ、この時点ではまだ、それは連発される打ち上げ花火のひとつだった。あまたある彼の夢のうちのひとつの実現に過ぎなかった。
それが年中行事の如くこの街で繰り返され、やがてロンドンへ、ベルリンへ、ニューヨークへと飛び火して、燎原の炎のように燃え続けることになろうとは、まして二十年もの歳月を経て、自らの死によってのみ断ち切られる、文字どおりのライフワークになろうとは、慧眼な彼ですら予想だにしなかったことだろう。
1909年5月19日、パリ、シャトレ座。
セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスの第一回公演が、この晩いよいよ幕を開ける。