野暮用が片付いたので、思い立って初台の新国立劇場でオペラを観た。
ただし本式の舞台上演ではなく、「コンサート・オペラ」すなわち演奏会形式による簡易上演であるらしい。倫敦や巴里に滞在しているときは歌劇場に足繁く通ったものだが、東京ではそうはいかない。何しろチケットが途方もなく高価だし、それでなくとも日本人が鬘をつけて演じるぎこちない舞台になぞ食指が伸びないのだ。
どういう風向きか出向く気になったのは偏に今夜の演しものの故だ。
モンテヴェルディ:
ポッペアの戴冠
演出/鈴木優人、田村吾郎
指揮/鈴木雅明
演奏/バッハ・コレギウム・ジャパン
アモーレ/松井亜希、中村裕美
フォルトゥーナ/パッラーデ/ヴェーネレ/藤崎美苗
ヴィルトゥー/野々下由香里
ポッペア/森麻季
ネローネ/レイチェル・ニコルズ
オットーネ/ダミアン・ギヨン
オッターヴィア/波多野睦美
セネカ/佐藤泰弘
ドゥルシッラ/松井亜希
ほか
オペラ・ファンの端くれとも呼べぬ不熱心な小生だが、どういう訳かこの作品に限ってはほうぼうで観ている。
初体験は1993年のロンドン。ジョン・エリオット・ガーディナー指揮による演奏会形式の上演、ポッペアにシルヴィア・マクネア、オッターヴィアにアンネ・ソフィー・フォン・オッターが扮した、今考えるとまさしく夢のような演奏だった(この日の実況録音が後日CDになっている)。
1997年には「花盛羅馬恋達引」と外題した東京室内歌劇場公演で、平安時代に設定を移した歌舞伎仕立て「王朝絵巻」風の典雅な舞台に身も心も酔いしれた(指揮/若杉弘、演出/市川右近)。
そのあとも1998年に「パーセル・クヮルテット・オペラ・プロジェクト」公演(東京)、2000年にポクロフスキー演出のモスクワ室内歌劇場公演(東京)、2001年には出張先のパリでジャン=クロード・マルゴワール指揮・演出の舞台まで追いかけて観た。
そうした体験を踏まえて確言するなら、今夜の公演は全体としては賛否こもごも相半ばする出来ということになろう。
まず特筆すべきは鈴木雅明とBCJの純度の高い演奏だろう。これまで実演ではバッハとヘンデルばかり聴いていたのだが、どうしてどうして、モンテヴェルディにも並々ならぬ親和力を発揮して、高雅にして繊細、雄弁な感情表現にも長けた瑞々しい音楽を紡いでいた。ピットに陣取った奏者十二人の豊かな自発性と、確信に満ちた指揮者の統率力を讃えたい。
歌い手のなかではネローネ役のニコルズが突出していた。女声ながら堂々と威厳に満ち、気紛れで我儘な暴君を余裕たっぷりに歌い演じて申し分なかった。オットーネに扮したギヨンも、カウンターテナーの声質を巧みに生かして、妻を主君に奪われた気弱なコキュといった役どころを巧みに演じきった。
このたびの上演は演奏会形式という制約下、殆ど仕草らしい仕草もなく、正面向きにただ立ったままの歌唱なので、かえって歌そのものによる「演技」、歌唱表現の力量の如何が厳しく問われる結果となった。さしあたり、この両人に関しては、情知兼ね備えた人間の存在をまざまざとと実感させてくれた。バロック唱法をわがものにし、最も自在に駆使していた点でも、このふたりは今夜の真の主役たりえていた。
ネローネ帝に疎んじられ離縁される皇后オッターヴィアを演じた波多野も、期待どおり安定した歌唱力を披歴した。惻々たる悲哀を漂わせつつ、告別のアリア「さらばローマ」を歌う姿は崇高そのもの。
同じく暴君に嫌われ死に追い込まれる哲人政治家セネカ役の佐藤は、低音をたっぷり朗々と響かせる見事な声の持ち主だが、古代ローマの哲学者というよりは苦悩する英雄か将軍といった趣で、ボリス・ゴドゥノフが間違ってバロック・オペラに闖入したような違和感を払拭しきれなかった。
最も赦しがたいのはタイトルロールを唄ったソプラノの致命的な非力さだ。音大の学内リサイタルさながら、おずおずと歌われたポッペアは、楽譜から逸脱しないのが精一杯で、一瞬たりとも生身の人間を感じさせなかった。こんな傀儡のような、木偶の坊のような、役立たずの操り人形と変わらぬ存在を、こともあろうにモンテヴェルディのヒロインに据えたのは、いったい誰の決断なのか。芸術監督の若杉氏なのか。まさか。ゴードン・クレイグだって起用すまい、こんな非力な超人形なんか。
怒りが沸々とこみあげたのは、大団円のデュエット "Pur ti miro, pur ti godo" を耳にしたときだ。極悪非道の不倫カップルが互いの愛を誓い合う。しかもこのうえなく美しく感動的にだ。これを奇蹟といわずしてなんといおう。学者たちはここの部分はモンテヴェルディの自作ではないと断定するが、そうと知りつつも「ああ、この瞬間にわれわれの知るイタリア・オペラは生まれたのだ!」と感じていつも涙してしまう。倫敦でも巴里でも泣いた。大泣きしてしまうのだ。「モンテヴェルディのなかに、すでにヴェルディが宿っている!」
ところが今日は泣くに泣けなかった。だってポッペアが人間的な情動をまるきり欠いていて、全くデュエットの体をなさないのだもの。こんな非道いことってあるものか。モンテヴェルディへの非礼、否、オペラそのものへの冒瀆と言われても、異を唱えることはできまい。うっすらと滲んだのはむしろ怒りの涙だ。