七時前にセットした枕元の目覚まし時計がけたたましく鳴った。
実はその少し前にもう夢から醒めていた。布団を撥ねのけ、顔を洗って玄関の扉を開ける。外ではひんやり冷たい小糠雨が降るともなく降り注ぐ。傘もささずにそのまま雨の街を歩くと、土曜の朝に早起きする人は稀なのだろうか、舗道にはまだ人影はなくひっそり静まりかえっている。近所のコンビニエンスストアで「朝日新聞」の朝刊を買う。
「二十五日に掲載されることになりました。掲載紙は後日必ずお送りします」と、記者の中島鉄郎さんに知らされていたのだが、待ってなぞいられようか。雨宿りができそうな道端のベンチを見つけ、別刷附録のようになっている「be on Saturday」を恐る恐るという感じでそっと抜き出す。
ここには毎週、巻頭ストーリーとして連載読物「うたの旅人」が掲載されている。童謡や民謡からヒットソングまで、人口に膾炙した、あるいは忘れ得ぬ名曲を一曲ずつ取り上げ、その歌が生まれた時代と背景、それが人々の心に何をもたらしたかを探る好シリーズだ。そこに今回は荒井由実の「ひこうき雲」(アルバム『ひこうき雲』所収、1973)が登場する。胸の鼓動が高鳴るのを抑えきれない。
空に憧れて
空をかけていく
あの子の命はひこうき雲
このリフレインにある「あの子」とは誰なのか。
明らかに親しい人の死をモティーフにしたと推察されるこの歌の「詩と真実」に迫るには、ユーミン本人に語ってもらうほかない。だが彼女は新作アルバムのプロモート以外の取材は受けないだろうし、もしも尋ねられたとしても、賢明な彼女のことだ、「もう書いてしまった以上、歌は独り歩きしているので、余計なことは言いたくない」と口を噤むに違いない。だから、今回のこの記事でも、そのあたりはチラと暗示しただけでさらりとかわしている。
第一面には大きく、抜けるような紺碧の冬空に航跡を描く飛行機雲を写した写真が掲げられている。キャプションには「空に描かれるひこうき雲の情景に、知人の早すぎる死の意味を重ね合わせた」とある。
記事の冒頭は東京・田町にあった「壁にひこうきの絵のある」六階建のビルの描写から始まる。ここにかつて音楽制作会社アルファ&アソシエイツがあり、当時としては最高水準の録音機器を備えた東洋一のスタジオが設けられていた。荒井由実のデビュー・アルバムはこの場所で生まれたのだ。
ただしそれは並大抵の作業ではなかった。ソングライター志望だったユーミンは自分の歌唱力に自信がなく、何度となく行き悩んだ。標題曲の「ひこうき雲」自体、もともとは雪村いづみのために書き下ろされた曲だったのだが、「作者のユーミン自身がうたうのが一番雰囲気が出る」とのアルファ社長・村井邦彦氏の判断から、彼女のアルバム・デビューが決まったのだ。書き手の中島さんの取材は抜かりなく、当事者である村井氏をはじめ、録音技師だった吉沢典夫氏や、雪村いづみらの証言を交えながら、シンガー・ソングライター時代の幕開けを活写する。
アルバム制作は入念を極め、一切の妥協は排された。当時の日本で抜群の演奏・アレンジ能力をもつ細野晴臣、松任谷正隆、鈴木茂、林立夫をバックに起用し、丸一年という例のない長期間のセッションが繰り返された。「ユーミンはいい、だから、労力を費やせた」と村井氏。次いで彼は「20世紀の日本の名盤ベスト50には入る」と豪語するのだが、これはむしろご謙遜だろう。こんなに完成度の高いアルバムが他にどれだけあるだろうか。
ところが、なのである。満を持して1973年11月20日に東芝EMIから発売されたそのデビュー・アルバムは「ほとんど話題にのぼらなかった」。
丹精こめてつくられたその出来映えからすると不思議でならないのだが、殆ど誰一人その存在に気づかなかったのだ。今となってはちょっと信じられないが本当の話だ。発売から半年ほどして東京・新橋のヤクルトホールで行われた彼女のデビュー・コンサートが空席だらけだったのだから間違いない。
だがいつの世にも具眼の士というのはいるもので、たったひとり彼女の才能に逸早く気づいて支持を表明した人間がいた。それも尋常ならざる熱烈さをもって、である。「朝日」の記事の前半部分は次の一文で締め括られる。
ただ、TBSラジオの深夜放送「パックインミュージック」2部のDJ林美雄さんは「天才少女現る!」と興奮して毎週、アルバムの曲をかけた。
(明日につづく)