ここで昨年十一月四日付の拙ブログに掲出した「ロシア絵本の夥しい模写」というエントリーを再録しておこう。
不思議なことがあるものだ。
少し前、とある県立美術館の学芸員から連絡をいただいた。存じ上げない方だったが、芦屋の美術館からの紹介だという。
なんでも、十年ほど前に歿した版画家の遺品を整理していたら、数多くあるスケッチブックのなかに、戦前のロシア絵本から模写したとおぼしきデッサンが数十葉も含まれていたのだという。そのいくつかについては、先年の『幻のロシア絵本』展カタログで元の絵本を同定できたものの、ほとんどは出典が不明だという。
その版画家は小生でも名前くらいは知っている。戦中戦後の日本版画史にそれなりの位置を占めていた人物である。ただし、左翼でも海外通でもなく、児童書に手を染めたこともないらしい。その彼が(おそらく)第二次大戦中にロシア絵本の模写を手がけていた。しかも半端でない分量である。
送られてきた画像データを眺めながら、ここ数日間というもの四苦八苦。全部というわけにはいかないが、どうにか六冊ほどのロシア絵本を出典として突き止めた。
結果をお知らせしてすっきりした。あとはどんな知られざる事実が判明するか。研究の進展が愉しみである。
この時点ではまだ具体的には書けなかったのだが、上の文章で「戦中戦後の日本版画史にそれなりの位置を占めていた人物」とは、「山の版画家」として今も記憶される畦地梅太郎(あぜち・うめたろう 1902-1999)なのである。
畦地のご遺族から寄託されたスケッチブックを分類・整理していく過程で、戦前のロシア絵本から模写したとおぼしき素描が数多く含まれることに気づかれたのは、作業にあたられた愛媛県美術館の学芸員・箱田千穂さんである。箱田さんから送られてきたデジタル画像と、手許にあるロシア絵本とを照合して、おそらく十三冊ほどあると察しられる出典のうちようやく六冊を同定できた。
そのなかにはヴィターリー・ビアンキ文、ユーリー・ワスネツォーフ絵『沼』、ハージン文、ニソン・シフリン絵『石油』など、1930年代初頭に出版された代表的な絵本も含まれるが、数十葉に及ぶ畦地のスケッチには出典が突き止められないものも多く、判明率はようやく半分に届く程度にとどまった。悔しいなあ。
畦地の模写はたいそう丹念になされており、原本の構図・色彩のみならず、それぞれの絵本挿絵の筆致や風合いまで緻密に写し取っている。察するに彼はロシア絵本を所蔵する知人からこれらの絵本を借覧し、かなり時間をかけてこれらのスケッチをしたためたのであろう。もっとも、知られる限り、畦地には絵本や児童書の挿絵を手がけた事実はないため、彼がこれらのロシア絵本を模写した理由は目下のところ全く不明である。
戦前・戦中の畦地には1943~44年の満洲旅行を除いて海外体験はなく、1920年代末のほんの一時期を除けば左翼芸術への接近もみられない。同時代のヨーロッパ美術への傾倒も殆ど認められないので、彼がどのような経緯からロシア絵本に興味を抱いたのかはさっぱりわからない。
最も驚いたのは、それらのスケッチのなかに吉原治良の創作絵本『スイゾクカン』の模写が四葉含まれていたことである。吉原のこの絵本が同時代のロシア絵本の強い影響下で制作されたことは殆ど疑う余地がないのだが、畦地はあたかもそのあたりの事情を察し、ロシア絵本と吉原の絵本とをひと連なりのムーヴメントと捉えていたと想像されるのである。
これらの絵本を貸与したのが誰なのか。畦地はいかなる意図で模写を行ったのか。また、それはいつのことだったのか。今のところこれらの問いに答える術はなく、すべては解けない謎というほかない。
このほど愛媛県美術館で「没後10年 畦地梅太郎展 山のいのち、人のぬくもり」が開催され(2月14日~3月29日)、その展覧会カタログを恵贈された。そのなかで上述の事実が初めて明かされ、数点の模写のカラー図版が掲載されているので、ここにこれまでの経緯のあらましを紹介させていただいた。