(承前)
モスクワで児童劇場を自ら主宰し、プロコフィエフとの共同作業を夢見る女性、「私」とはいったい誰なのか。
このあとの成り行きを詳しく紹介する前に、このあたりで彼女の生い立ちと、それまでのキャリアについて、ざっと紹介しておいたほうがよさそうだ。
彼女の名はナターリヤ・サーツ Nataliya Sats (Наталия Сац 1903‐1993)といった。
ナターリヤの父はイリヤ・サーツ Ilya Sats(1875‐1912)という作曲家で、スタニスラフスキーに請われて創成期のモスクワ芸術座で座付作曲家を務め、メーテルリンクの『青い鳥』などいくつもの舞台音楽を書いたが、三十七の若さで急逝した。幼くして父を失ったサーツ家はただちに困窮するが、幼いナターリヤは周囲のモスクワ演劇人、とりわけ演出家ワフタンゴフの励ましを受けて、彼女のふたつの情熱、すなわち音楽と演劇の道を模索し始める。
1917年のロシア革命とそれに引き続く激動の時代がナターリヤの情熱に拍車をかけた。1918年、ピアノ伴奏による人形劇を上演したのを手始めに、子供たちを観客とする公演活動にヴォランティアで情熱的に打ち込んだ。彼女の結成した小劇団は常打ち小屋をもたず、団員も無給だったが、やがて彼女の試みが次世代の育成に心を砕く革命政府の認めるところとなり、1921年に公立の「モスクワ児童劇場」として正式に発足をみた。このときナターリヤ・サーツは十八歳の若さだった。
サーツは「アラビアン・ナイト」から「ハイアワサ」まで、古今の多くの物語に想を得るとともに、同時代にも題材を得ながら、座付作曲家レオニド・ポロヴィンキンと組んで多くの新作を送り出した。演劇、オペラ、バレエ、人形劇、サーカス、パントマイムなど既存のジャンルから子供たちにアピールする要素を抽出し、それを独自のやり方で組み合わせ、心弾むスペクタクルを創り上げた。児童演劇のパイオニアとしての彼女の果敢な営みは、やがてソ連国内のみならず広く世界に喧伝され、モスクワを訪れた文化人たちはこぞって彼女の劇場に足を運ぶようになる。
1927年末、革命十周年の賓客として訪ソした小山内薫は、モスクワ滞在の最終日にナターリヤ・サーツの児童劇場を訪問する。
いよいよモスクワを立つといふ十二月の十三日の朝、ВОКС(対外文化連絡協会)へ告別に行くと、ナウミルスキイさんが言はれるには、「あなたは着いた晩から芝居を見たのだから、立つ日も間際まで芝居を見ることにしたらだうだ」「でも夜の芝居を見てゐたら間に合はないでせう」「いや、昼間の芝居だ」「へえ、日曜日でもないのに、マチネエがあるのですか」「あるとも、毎日午後三時からたつてゐる。しかも、それは是非あなたに見て行つて貰ひたい芝居だ」「どこの芝居ですか」「子供の為の芝居さ」「あのパスカルさんのですか」「いや、パスカルのではない。ナタリア・サアツの『子供の為の劇場』だ。ナタリア・サアツは亡くなつたイリヤ・サアツの姪 [ママ] に当る人だ。イリヤ・サアツはあの、美術座の『青い鳥』や『ミゼレエレ』の音楽を書いた天才作曲家だ。一体サアツ一家は芸術家の血を引いた家で、今のルナチヤルスキイの細君なども、ナタリア・サアツとは従姉妹同志だ」「さういふ劇場のあることはちつとも知りませんでした。ちょつとでも見にいきませう」「実は、あなたに、是非見て貰ひたいと思つて、場席もとつてある。ナタリア・サアツさんにも是非会つて貰ひたい」
私はイリヤ・サアツの音楽を知つてゐる。サアツと言う名は私にとつて懐しい思ひ出のある名である。私は急にナタリア・サアツといふ人の顔が見たくなつた。しかも、その為事が子供の芝居であるときいて、一層好奇心に駆られた。
私は通訳のイリウシヤに「君、小屋知つてるか」「えゝ、知つてますとも」「それぢや」と言ふので、ナウミルスキイさんに挨拶をすると、直ぐВОКСを出た──
三時頃イリウシヤと二人で自動車を飛ばした。自動車は、トヱルスカアヤの六十一番地のキノアルスといふ映画常設館の前で留つた。
「ここがサアツの子供の芝居かい」「えゝ」「活動の常設館を借りてやつてゐるのかい「だうか知りませんが、毎日午後三時から六時まで、ここで子供の為の芝居をやつてゐるのです。舞台も楽屋も立派にあります」
館の中へ入ると、ナウミルスキイさんが奥さんと一緒にもう先へ来てゐた。秋田君も米川君も鳴海君も先着してゐた。小作りな顔のまるい、にこにこした男の人が来て、「さあどうぞ」と言ふ。私達は楽屋を通つて、階段をあがり、小さな狭い部屋へ通された。
正面の壁を背にして、大きな卓の前に若い美しい婦人が坐つてゐた。断髪である。細い長い眉毛、理智に輝く大きな目、鼻筋が通つて歯が白く美しい。紺地に色糸で縫ひのしてある、質素ではあるが、趣味の好い着物が、ほつそりとした身を包んでゐる──それがナタリア・サアツだつた。
(明日につづく)