このあたりでちょいと息を抜いて、連載とはまるで違う話題を。
昨夜のこと、のんびりホットカーペットに寝ころんでいたら、家人から「この本を読んだか」と尋ねられた。「ああ、タイトルに惹かれて手に入れ、読んでみたのだが、ちょっと期待外れだったなあ」と答えると、私も同感だという。こんな本だ。
フレデリック・フェイエッド
中山容 訳
ホーボー アメリカの放浪者たち
晶文社(晶文社セレクション)
1988
「ホーボー hobo」とは懐かしい響きをもった言葉だ。大恐慌時代を背景に、住居も定職も家族ももたず、アメリカ各地を列車に無賃乗車しながらさすらう放浪者のことをこう呼ぶ。「ほうぼう旅する」という日本語が語源なのではないか…。そういう説をかつて聴かされた憶えがあるし、家人もそう思い込んでいた由。wikipedia では一顧だにされていないので、これはやはり俗説だったようだ。
標題から推して、てっきりアメリカのホーボーたちの実態や歴史を物語った本かと思いきや、米文学に描かれたホーボーの姿を、ジャック・ロンドン『ザ・ロード』、ジョン・ドス・パソス『USA』、ジャック・ケルアック『路上』の三作品で辿るのみという、いささか看板倒れな内容にがっかり。訳文も芳しくない。ということで本書の取り柄は、黄地に黒の書き文字が鮮やかな平野甲賀の装幀(
→これ)だけということになろうか。
「ホーボー」という語を初めて目にしたのは1974年のことだと思う。南池袋の小劇場「シアターグリーン」で行われたフォーク系ミュージシャンによる連続コンサートが「ホーボーズ・コンサート」と題されていたのだ。おそらくウディ・ガスリーやボブ・ディランの歌でホーボーの存在を知った企画者が憧れをこめて命名したタイトルとおぼしい。
悲しいかな、無知な小生はそのあたりに思いを巡らすことなく、告知チラシだけ貰って一度も足を運ばなかった。もし出かけていれば、二十代の細野晴臣が "Hosono House" の楽曲を弾き語りするのを間近に聴けたはずなのだが。今でもそのチラシだけは手許にある。
それから数年して、ホーボーという連中、ホーボーという生き方、ホーボーという哲学を、単なる言葉でなしに、鮮烈な映像を通してまざまざと実感させてくれるフィルムに名画座のスクリーンで出逢った。タイトルを『北国の帝王』といった。
貨物列車に只乗りしてアメリカ各地をさすらう初老のホーボーと、そうはさせじと鬼のような形相で放浪者を追い詰める車掌との手に汗握る闘い。いかついおっさん同士が疾走する貨車の屋根上でガンマンよろしく対決する。ただそれだけの物語なのだが、そこには筋金入りの意地と矜持に貫かれた「男のロマン」がある。
ああ、これがホーボーなのか、これこそがアメリカだなあと実感させる。そんな映画の作り手はひとりしかいない。ロバート・アルドリッチだ。