(承前)
プロコフィエフとその家族といつか再会できるかもしれない。「私」の予感はほどなく的中する。
その願いは叶えられた。一週間後、プロコフィエフ家は私たちの芝居『ジューバの物語』を観にやって来た。私は初めから彼らのボックスに同席し、プロコフィエフの反応を観察できたのだが、それは息子たちに較べてすら、よほど屈託のないリアクションだった。大声で心底から笑い、ありとあらゆる評言を口にした。気に入ったなら大好き、気に喰わないとなると大嫌い。彼の判断にはおよそ中庸というものがなく、無感動はありえなかった。短く、きっぱりと、むしろ語気鋭く言い放った。「まずまずだ」とか「見方次第では」とかいった表現は彼の辞書に存在しなかった。
ぶっきらぼうな彼の受け答えに慣れるのにいささか時間がかかったが、私は少しずつ彼の存在に居心地の良さすら覚えるようになっていった。彼は真面目で率直な人だった。よそよそしく傲慢そう、という私の抱いた第一印象はまるで誤りだとわかった。彼は不機嫌なとき、ひとりしてほしいとき、その仮面を被るのである。プロコフィエフがかくも長く外国で暮らしたあと、ロシア的な屈託のなさを失わなかったのは驚くべきことだ。
プロコフィエフ一家は明らかに私たちの劇場がお気に召して、レパートリーの大半を観てくれた。プロコフィエフの息子たちは彼ら自身の劇場、子供たちのための劇場に行くのが愉しみだった。これは外国で見ることのできない類いのものなのである。
こうしてプロコフィエフと夫人リーナ、ふたりの息子スヴャトスラフとオレグは、「私たちの劇場」、すなわちモスクワ児童劇場へと足繁く通う常連客となった。
1918年夏、ロシア革命後の混乱を逃れて祖国をあとにしたプロコフィエフは、1927年に演奏旅行で里帰りを果たし、大歓迎を受けたのを皮切りに、毎年のようにソ連を訪れていた。1929年、ヨーロッパにおける最大の庇護者ディアギレフの急死に遭ってから、彼は活動拠点をパリからモスクワへ移すことを真剣に考え始めていた。ソ連当局は作曲家に対し、充実した創作環境の提供、海外旅行の自由や安楽な住環境など破格の好条件を提示し、家族を伴った恒久的な帰国を強く促した。
1935年とはプロコフィエフが家族全員を引き連れてモスクワで暮らし始めた最初の年なのである。
長男スヴャトスラフは十一歳、次男オレグは七歳。子煩悩な夫妻にとって、この「見知らぬ」国で息子たちにどんな教育を授けられるか、どんな愉しみを見つけてあげられるかが大きな関心事だった。プロコフィエフ家が揃ってモスクワ児童劇場に足を運んだのは、まさにこうした時期にほかならなかった。
(明日につづく)