観劇が済んで二時半に国立劇場を出ると、清々しい青空と春のような陽気に誘われて堀端を散策。千鳥が淵の桜はまだ枯木同然で人影もまばら。ここが二週間後には立錐の余地もない喧噪状態になるのが信じられないほどの静けさだ。
そのまま九段から神保町へと抜けたところでふと思い立って、蓄音器とSPレコードの専門店「梅屋」に店主の梅田英喜氏を訪ねる。
前にも何度か書いたように、彼は編集者時代の1980年代末、小生のデビュー作文である連載「12インチのギャラリー」を担当された。いわば「もの書き」としての小生の産婆役を務められた恩人である(ちなみにそのとき編集部の同僚だったのが今や「盤鬼」の称号を奉られる平林直哉氏なのである)。その後キッパリ「脱サラ」された梅田氏は得意領域である古い蓄音器やSPレコードを海外で買い付ける仕事に転身され、青山の骨董通り、さらに神保町に店を構えて今日に到る。
彼からは今年になってすぐ「沼辺さん向きの珍しいSPが手に入ったので取り置いておきます」との連絡を受けていた。半月ほど前に所用で神保町に出向いた際に訪ねたら不在だったので、改めて再訪したのである。
挨拶もそこそこに「近々ここを引き払うことになった」と告げられる。なんでも契約更改が抉れ、店舗の引っ越しを余儀なくされたのだという。店内には骨董品の蓄音器やらオルゴールやらが所狭しと犇めいていて、引っ越し作業は気が遠くなるほど大変そうだ。少しでも売り上げに貢献しようと、お勧めのSPは一も二もなく買い上げ。
1)
フレデリック・ディーリアス:
子守唄 Cradle Song
夜啼鶯 The Nightingale
夕べの声(薄明の幻想) Evening Voices (Twilight Fancies)*
ソプラノ/ドーラ・ラベット
ピアノ/トマス・ビーチャム卿
1929年6月10*、24日、ウェストミンスター、ペティ・フランス、大スタジオ
Columbia L 2344これはもうたいそう貴重な遺産である。英国の名花ドーラ・ラベット嬢(1898-1984)が珍しくもビーチャム卿のピアノ伴奏で歌うディーリアス。録音年代から鑑みて作曲者自身が耳にしたことがほぼ確実な音源なのだ。
所望して「梅屋」自慢のクレデンザで再生していただくと、すぐ眼前で馨しい肉声と生のピアノが鳴っているとしか思えず、家人ともどもうっとり魔法に聴き惚れる。盤質も「ミント」、すなわち傷ひとつない。
2)
ハメルンの笛吹き The Pied Piper of Hamelin
作/ロバート・ブラウニング
脚色/エドナ・ベスト
伴奏音楽作曲指揮/ヴィクター・ヤング
朗読/イングリッド・バーグマン
1940s
Decca Album DA 450これもまた前者に劣らず珍しい。1940年代、米デッカ社は著名な映画俳優と音楽監督ヴィクター・ヤングを起用して、一連の「音楽物語」アルバムを制作した。なんとも贅沢な企てだ。この「ハメルンの笛吹き」は10インチSP二枚組アルバム仕立てで、素敵な表紙絵を開くと美しいバーグマンのポートレートが現れる仕掛け。解説小冊子まで失われずに付属している。
どうです、見てみたいでしょう、聴いてみたいでしょう。
宜しい、
ここをクリックしてご覧なさい!
というわけで、思いがけず鞄が重たく懐が軽くなった。
夕方になって小腹がすいたので、久しぶりに「共栄堂」でポーク・カレーと焼き林檎を食す。美味なり。そのあと腹ごなしにお茶の水まで歩いて今日の小旅行はお終い。