さしたる理由はないと思うのだが、
『シェルブールの雨傘』をこれまで一度も目にしたことがなかった。同じジャック・ドミー監督作品でも、次作でその姉妹篇というべき『ロシュフォールの恋人たち』は繰り返しスクリーンで接し、『ローラ』も『ロバと王女』も、さらに『都会の一部屋』や『パーキング』のような珍しい作品まで観ているというのに、これはどうしたことだろう。あまりに世評が高いので敬遠したのだろうか。
だから今回の「デジタル・リマスター版」による上映が初めての体験。かなり混み合うと聞いていたので、十時からの初回に備えて早めに到着したら、まだ誰もいない。近くの珈琲屋で少し時間を潰してからビルの最上階にある「シネセゾン渋谷」へ。
美しいといえばこれほど美しい映画も滅多にない。何の変哲もないうらぶれた港町の風景を捉えるキャメラの素晴らしさ。女性たちの纏う衣裳のとりどりの赤、雨傘店の壁紙を彩るピンクの息を呑む艶やかさ。天才的というほかないミシェル・ルグランの旋律の魅惑。そしてもちろん、二十歳そこそこのカトリーヌ・ドヌーヴの初々しい可憐さはどうだ!
一言でいえば、これは夢のような映画だ。といっても、夢のように美しいとか、夢物語だということではなく、われわれの人生もまた夢のようにただ過ぎていく、という否応ない事実を観る者に突きつける、そういう意味で、この映画はひとつの啓示であり夢なのである。
もしもこの作品と学生時代に出逢ったなら、恋を成就できなかった主人公たちに感情移入するあまり、これを哀しいロマンスだとしか捉えられなかったろう。確かにこれは悲恋物語には違いないのであるが、この映画の本当の味わいはさらにその先にあるもの、すなわち人々の感情や願望や思惑を超えて、厳然と存する摂理のようなものをひしひしと感じさせるところにある。
だからエンディングの再会場面を観ていて余計な感傷の入りこむ隙がない。人生はなるようにしかならない、こうなるほかないのだ、という厳粛な思いが込みあげてくる。抗いがたい運命を甘受しようとする意志が感じられるのだ。
ところで、これはつねづね思っていたのだが、この映画をミュージカルと呼び慣わすのは正しくないのではなかろうか。
何しろありとあらゆる台詞が、それこそ「おはよう」から「おやすみ」まで、「グラスにもう一杯」も「釣銭はないよ」も「ガソリンを満タンにネ」も、悉くが登場人物の歌で表されるのだ。こんな破天荒な試みがそれまでに存在しただろうか。凡百のミュージカル映画が両手の指に足りるほどのナンバーを要所に配し、残りはひたすら通常の会話で繋げていたのとは本質的に異なる、映画史上初の企てなのだ。
思うにこれはもう殆どオペラそのものだ。しかもアリアはおろかレシタティーヴォまでも、すべてが固有のメロディ・ラインに乗せて唄われる。だから、本作に始まるドミー=ルグランの協働作業はしばしば「フィルム・オペラ」の名で呼ばれている由。尽きることのない泉のごとき旋律の豊かさ、そこに籠められた感情のこまやかさにおいて、ミシェル・ルグランの才能はずば抜けている。20世紀全体を回顧しても、彼に比肩できそうなオペラ作曲家は僅かにプッチーニとガーシュウィンのふたりを数えるのみなのである。