新聞を取っていないので世事に疎くなり、ニュースを耳にするのがどうしても遅くなる。今日たまたまネット上をあれこれ彷徨っていて、東京・駿河台のカザルスホールが来年三月で閉館になるとの報道に接した。
パブロ・カザルスの名を正式に冠して(つまりマルタ・カザルス=イストミン未亡人の許諾を得てということだ)、日本初の室内楽専用ホールとして鳴り物入りでオープンしたのが1987年12月。以来、萩元晴彦さんのプロデュースのもと、自主公演を主軸に据えて、ハイドン全交響曲演奏だの、ヒンデミット・フェスティヴァルだのといった清新な企画を続けざまに打ち出し、今井信子さんを中心に世界で唯一のヴィオラの祭典「ヴィオラスペース」を毎年のように催してきた。
もっとも、カザルスホールは2002年すでに死んでいるとの見方もできよう。この年にホールを含む複合文化施設「お茶の水スクエア」は主婦の友社の手から離れ、日本大学に売却された時点で、ここは「宝の持ち腐れ」よろしくマンモス大学の一施設の地位に貶められ、ありふれた貸しホールのひとつになり果てたのである。それからというもの、面白そうな演奏会はここでは殆ど催されていない。因みに今では「日本大学カザルスホール」が正式名称だ。
うろ覚えの記憶で恐縮なのだが、室内楽専用ということで、開設時にカザルスホールはロンドンのウィグモア・ホールを手本に仰いだのではなかったか。座席数もこちらが五百十一に対し、あちらが五百四十とほぼ同規模だし、第一級の巨匠のリサイタルだけでなく、広く若手演奏家に門戸を開くという方針もよく似ている。ともに響きのよいホールである点も共通する。にもかかわらず、1901年に開設されたウィグモア・ホール(創設時の呼称はベクスタイン・ホール。大田黒元雄の滞英日記にも出てくる)は一世紀後の今日も変わらず健在なのに対し、嗚呼、カザルスホールの命脈は二十年ちょっとで尽き果てようとしている。待ち構えているのは再開発という名の無残な破壊だろう。ここは倫敦でないのだ。
出不精の小生がこのホールに出掛けた機会は数えるほどしかない。
最も忘れがたいのは、このホールの開館直後に催された1987年12月11日に催されたミエチスワフ・ホルショフスキのピアノ・リサイタルだろう。永くカザルスの伴奏ピアニストを務めたホルショフスキは、盟友の名を冠したホールの杮落としを寿ぐべく、九十五歳の高齢にも拘らず初来日を果たしたのだ。
嗚呼、あの宵のことを思うと今でも胸が高鳴り、ちょっと言葉にならなくなる。
なので、ここではかつて書いた短い回想「たまには老大家を聴こう」を読んでいただくにとどめよう(
→ここ)。
こうしてホルショフスキにより聖別され祝福されたホールがこのような末路を迎えるようになるとは、ちょっと目を覆いたくなる悪夢のような出来事だ。それがこのニッポンの現実なのだが。