リハーサルの翌日に本番の演奏会がある。
当事者にとっては日常茶飯事だろうが、それを続けざまに客席で体験するのは(大昔の大学オーケストラでの見聞を除けば)生まれて初めてだ。わずか一日しか経っていないのに音楽の完成度がまるで違うのに瞠目。さすがプロフェッシュナルだけあって習熟能力が半端ではない。アンサンブルが見違えるほど整っていたし、おずおずしたところのない確信に満ちた音楽が流れ出すのに感服した。
すっかり背が前屈みになった、痩せて手足のひょろ長い老人が登場、とぼとぼと覚束なげに歩を進める。その姿はいつかどこかで出逢った何者かを連想させる、と昨日もそう思ったのだが、今ようやくそれが誰であるかわかった。昔々ムルナウ監督の無声映画で観た怪人ノスフェラトゥと姿形も歩き方もよく似ているのだ。
フランス・ブリュッヘン・プロデュース
ハイドン・プロジェクト
ブリュッヘン+新日本フィルハーモニー交響楽団
「ザロモン・セット」第一日
15:00-
すみだトリフォニーホール
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン:
交響曲 第九十六番 ニ長調
交響曲 第九十五番 ハ短調
*
交響曲 第九十三番 ニ長調
今日の白眉は間違いなく、真ん中に置かれた「九十五番」。
なんといっても曲が素晴らしい。ザロモン・セット中で短調で書かれた唯一の曲、という点を差し措いても、この音楽に盛り込まれた創意工夫の数々に驚かされる。序奏なしでいきなり開始される第一楽章の峻厳な佇まいに思わず襟を正したくなるし、第二楽章の主題と変奏のさりげなく、しかし巧緻な書法には聴き惚れるばかり。ブリュッヘンは徒に深刻ぶらず、強弱の対比を際立たせることもせず、むしろ淡々と音楽をして語らせるという行き方。それが却って奏者たちの自発性を掻きたて、「今ここにある」ハイドンを瑞々しく息づかせる。
「九十五番」をフリッツ・ライナーやパブロ・カザルスの指揮で知ってしまった前世紀のオールド・ファンは、無意識のうちにこの曲に重厚で力強い推進力や骨太で剛毅な足どりを求めたくなるのだが、それが全くの誤りだった、とは認めたくはないものの、実際にハイドンが書いた音楽はもっと繊細で微妙なニュアンスに満ちたものだと否応なく気づかされる。
(まだ書き出し)