久しぶりに京橋のフィルムセンターへ赴く。といっても目下続映中の怪獣映画のためぢゃ断じてない。今年初めからここの七階展示室でやっている企画展を観るのが目的だ。憂鬱な雨もやっと上がった。地下鉄から地上への階段を足早に駆け上がる。
無声ソビエト映画ポスター展
東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵《袋一平コレクション》より
1月8日→3月29日
(
口上)
フィルムセンターが所蔵する無声期のソビエト映画ポスター(袋一平コレクション)は、大胆な構図感覚でロシア構成主義の息吹を生々しく伝える貴重なコレクションです。ステンベルグ兄弟をはじめとする一群の野心的なアーティストが残した100枚以上のオリジナル・ポスターを展示します。
袋一平(ふくろいっぺい/1897~1971)の名は、今日ではわずかにソ連児童文学・SF小説の翻訳家として記憶されていよう。もっともそれらは第二次大戦後、袋がふたつ目のライフワークとした後半生の業績であり、戦前の彼が全力を傾けて推進したのは新生ソ連で続々と生み出される映画の輸入と紹介であった。もっとも、社会主義思想の流入に極度に警戒する当時の日本社会にあって、それは予め困難な茨の道になることを運命づけられていた。
東京外国語学校ロシア語科を卒業後、映画配給会社「一立(いちりゅう)商店」に入社した袋は、ソ連映画の買い付けを志して1930年5月に入露する。モスクワでは全ソ対外文化連絡協会(ヴォクス)の斡旋で、撮影所の見学や映画人との面会に奔走する。ソ連映画にとって時まさにトーキー導入の渦中であり、彼は先進国での先端映画技術に触れるとともに、エイゼンシュテインやプドフキンらと親しく交流した。
当時のモスクワでは、1927年11月の革命十周年記念式典で小山内薫や秋田雨雀らが招かれたのに続き、28年8月に市川左団次の松竹歌舞伎が興行を成功させ、同年10月には「日本児童書・児童画展」が開催されるなど、日本文化紹介の気運が澎湃と沸き起こっていた。
映画の分野でも、袋の滞在以前すでに1928年に衣笠貞之助と河原崎長十郎がモスクワでエイゼンシュテインやプドフキンと親交を結んでおり、29年には衣笠が持参したフィルムにより「日本映画特集」が催されるなど相互交流の機はすでに熟していたのである。
ロシア語が堪能な袋は、ヴォクスの求めに応じてモスクワのみならず数都市に赴いて、「日本映画の夕」と題し、持参した数本の日本映画を上演するとともに、邦画の現状について講演を行った(因みに、このとき袋が持参した一本『何が彼女をさうさせたか』は、現存唯一のプロントとして1990年代にモスクワで再発見された)。
ほぼ二箇月の稔り多いロシア滞在は慌しく過ぎ、袋一平は7月に帰国した。
このとき彼が帯同したのが百を超える数のソ連映画のポスターである。本当は映画そのものを持ち帰りたかったろうが、日本の税関を通過することは困難なのでそれは断念し、ポスターで代用させるほかなかったという事情もあったろうし、収集を支援した「ヴォクス」当局とすれば、それらのポスター自体がソ連の誇るべき文化であり、強力なプロパガンダ媒体でもあるという意識が強く働いたのだろう。
ともあれ、袋が持ち帰った貴重な映画ポスター群は、時をおかず東京・銀座の伊東屋で「ソヴェート映画 ポスター、スチール展」として展観された(1930年9月12日~21日、その後、各地に巡回)。その大半が過酷な左翼弾圧も第二次大戦の戦火もくぐり抜けて八十年の時の試練に耐え、こうして21世紀の今日まで伝えられたのはほとんど奇蹟に近い。
国会図書館を経てフィルムセンターの所蔵となった袋一平旧蔵のソ連映画ポスターは140点にも及ぶ(帰国後に収集されたものも含む)。その全点がこのたび展覧会として公開される運びとなった。まとまった形としては実に1930年以来初めての機会である。展示スペースの関係で会期を三期に分け、今はその「第一期」として1925年から28年まで、すなわち無声映画末期のソ連映画のポスター四十五点がずらり並んで壮観。プドフキンの『母』と『聖ペテルブルグの最後』、エイゼンシュテインの『十月』がある。ボリス・バルネットの『帽子箱を持った少女』が、セルゲイ・コマロフの『メアリー・ピックフォードの接吻』がある。
今日はロシア・ユーラシア文化研究者で「ロシア映画の生き字引」である畏友・井上徹さんのギャラリートーク付きでの鑑賞。なんとも贅沢きわまりない体験である。
カタログが素晴らしい。全点のカラー図版が井上さんの解説つきで収載されているのが嬉しく、戦前のソ連映画ポスター受容についての川畑直道さんの論考の博捜ぶりにくらくらする。
「第一期」は明日(2月1日)まで。そのあと、時代を追って「第二期」(2月3日~3月1日)、「第三期」(3月3日~29日)と続く。千載一遇とはこのことだ。