昨年の暮、映画評論家の植草信和さんにお目にかかったとき、「今度ソクーロフの新作を輸入することになったので、ぜひ観てほしい」と強く勧められた。植草さんはこのところ洋画の買い付けにも力を注ぎ、『胡同の理髪師』に続いて輸入したのが本作なのだという。「戦闘場面の全くない戦争映画。凄いシャシンだよ」とすっかり心酔しきったご様子。
そこで早速に前売券を手に入れ、正月休みにでも出掛けようと思っていた矢先、年末にひどい風邪に見舞われ、年が明けると今度はあれやこれやの野暮用やら原稿書きに追われて、息もつけないまま一月末になった。調べてみたら上映はこの30日までなのだという。
そこで慌てて電車に飛び乗り、渋谷の歓楽街のただなかにある映画館ユーロスペースまで駆けつけたという次第。
正直なところ、ソクーロフについては充分な知識がない。初期の『孤独な声』や『日蝕の日々』、「エレジー」シリーズの何本かを観て、胸を締めつけられるような感動を憶えた記憶があるのだが、90年代の話題作から「権力者三部作」に到る重要な作品を悉く見逃してしまった。なんとなく縁がなかったというほかない。
どうせ予備知識がないのなら、むしろ全くの白紙状態で観たいと思い、チラシもろくに見ず、ネット上の情報にも目を通さずに出向く。
タイトルは『チェチェンへ アレクサンドラの旅』という。ただしこの邦題は説明しすぎでよろしくない。原題はシンプルにずばり『アレクサンドラ
Александра』。主人公の老女の名である。
八十歳のロシア女性アレクサンドラははるばる軍用列車に揺られて将校である孫デニスを訪ねる。前線に近い駐屯地がチェチェンであると映画は決して明かしていない。状況からそれと暗示するのみだ。そもそも彼女が孫を訪ねようと思いたった経緯も、彼女の過去の人生についても映画は一切を黙して語らない。
そのかわりフィルムは彼女がキャンプで見聞したすべて、兵士たちが交わす日常のやりとり、どうということのない瑣事、食器の音や風の音まで、一切合財を淡々と、それこそ無秩序なままに繰り出す。戦場はここからさらに遠方にあるらしく、兵士たちは単調な日常を、倦怠感と投げやりな態度でただ遣り過ごすばかりだ。
ちょっとやそっとでは動じそうにない、ぶっきら棒で頑固で向こう気が強そうで、いかつい面構えの老女アレクサンドラ。その揺るぎない存在感が凄い。周囲の兵たちは誰もが幼いひよっこに見える。
キャンプから買い物に出たアレクサンドラがバザールの店でたまたま出逢った現地の老女と心を通わす場面がやけに心に残る。男たちが戦っていても、女たちは味方同士なのよ、といわんばかりだ。
映画の末尾でデニスは慌しく前線に向けて転戦し、アレクサンドラもまたロシアへと家路に就く。もと来た線路を彼女を乗せた軍用列車がゆっくり動きだすところで全編は終わる。劇的な事件なぞ何ひとつ起こらない、ただひたすら日常的に過ぎゆく三日間。なのに、フィルムの手応えはずしりと重たい。
最後のキャスト字幕を(ロシア語なので必死に)眼で追っていて愕然とする。
アレクサンドラ役を演じたのは
Галина Вишневская とある。まさか。
(明日につづく)