たまたま昼時に入った定食屋で読売新聞を開いたら、思いがけず懐かしい人の名前が目に入った。悲しいことに訃報である。
中西立太(りった)さん。享年七十四。記事の肩書には「歴史復元画家」とある。
まだ駆け出しの編集者だった頃、中西さんにはずいぶんお世話になった。神保町の小さなプロダクションに所属して、小学館の『学習まんが 少年少女日本の歴史』シリーズ(通称「まんが日本史」)の編集を手伝っていた時分のことである。1980年代初めだったろうか。だとすれば小生が三十になるかならないかの頃合だ。
今になって思うのだが、たとえ漫画であるにせよ、遠い過去の出来事をヴィジュアライズするのは至難の業だ。平安時代を例にとると、寝殿造の建物は遺構がひとつも残されておらず、貴族たちのまとう衣冠束帯も十二単(ひとえ)の衣も、わずかな残欠すら伝わらない。
やや下って信長・秀吉の時代になっても事態は殆ど変わらない。歴史の表舞台として名高い安土城、大坂城、聚楽第、伏見城はことごとく現存しておらず、その内部の様子はおろか、大まかな外観ですらイメージするのは難しい。
しかるに小学館のシリーズは、「可能な限り時代考証を施し、正確な再現描写を心がける」方針を打ち出したため、漫画家にかつてない労苦を強いる結果となった。
われら編集者も目の回る忙しさだった。時代考証をお願いした建築史、服飾史、船舶史、甲冑や家具の専門家たちの間を駆けずり回り、作画に必要な情報を掻き集める。それを漫画家に伝達するのが役目だったのだが、これが筆舌に尽くせぬ難しさだった。おまけに各巻には毎回「資料編」のページが設けられており、精密な図解特集がつく。例えば、安土桃山なら「秀吉創建の大坂城パノラマ」、江戸時代なら「江戸下町の街並眺望」や「長屋の見取り図」といった具合にである。この図解イラストを担当して下さったのが中西立太さんだったのである。
普段は温厚な中西画伯がたった一度、烈火の如く怒ったことがある。
あれは鎌倉末期だったか、南北朝だったか、中世の山城をめぐる攻防戦を絵にしようとした。たしか『太平記』のなかで、楠木正成が断崖に砦を築き、敵めがけて石を投げ落とす、というような場面だったと記憶する。中西さんはいろいろ資料にあたりつつ、かなり想像も逞しくして、一枚の画稿を仕上げた。それを時代考証の先生の許に持参し、アドヴァイスをいただくのが小生の役割だった。
建築史の先生は一瞥するなり、「なんの証拠もない空想の産物だなあ」と一笑に付した。「中世の山城や砦については明確なことはわからない」とも。
その足で東久留米の中西さんのお宅を訪ねた小生は、画稿を一旦お返しし、結果を率直にお伝えした。そのときだった。
画伯の顔がみるみる紅潮し、髭を蓄えた口元がわなわなと震えた。そしていきなり叱声が浴びせかけられた。
沼辺クン、君はなんという奴だ! 僕は裏切られた思いだ!
これがもしも戦場だったら、僕は弾を受けて死んでいる!
(明日につづく)