(承前)
そんなわけで、夢の島に実際に足を踏み入れるのは初めての体験だ。
現在ここは四十三ヘクタールもある広大な都立公園となっていて、敷地にはスポーツセンターや熱帯植物園がある。隣接して塵芥処理工場があり、その焼却熱によって熱帯植物園の温度管理がなされている由。
ここに来た目的はほかでもない、この地に設けられている「第五福竜丸展示館」を訪れようと思ったのだ。直接のきっかけはアーサー・ビナードさんのご著書である。
絵/ベン・シャーン
構成・文/アーサー・ビナード
装丁・デザイン/和田誠
ここが家だ
ベン・シャーンの第五福竜丸
集英社
2006
この類い稀な詩画集については少し書いたことがある(
→ここ)。昨年十月、千葉に来訪されたビナードさんの講演会を聴いた日のエントリーだ。
今や殆どの日本人が忘れかけているこの被爆事件を、日本に棲むアメリカ詩人と、リトアニア移民のアメリカ画家の時空を超えたコラボレーションによって、まざまざと想起させられるという事の成り行きに、日本人の端くれとして深く恥じ入るとともに、「一度ぜひ訪れてみなければ」という思いを強く抱いたのである。
第五福竜丸が夢の島に保存されるに到った経緯については微かな記憶がある。
1954年3月1日、南太平洋のビキニ環礁で米国が行った水爆実験は、たまたま近くで操業中(警告された危険海域の外)の遠洋鮪漁船「第五福竜丸」を直撃した。
二十三人の乗組員の全員が急性放射能症に罹り、特に重症だった無線長・久保山愛吉さんが半年後に亡くなった。
それから十三年後の1967年、東京水産大学の練習船に改造されていた第五福竜丸は人知れず廃船処分となり解体業者に引き渡され、この夢の島に放置されて雨曝しになっていた。
1968年三月、「朝日新聞」の「声」欄に一通の投書が載った。
第五福竜丸。それは私たち日本人にとって、忘れることのできない船。決して忘れてはいけないあかし。知らない人には、心から告げよう。忘れかけている人には、そっと思い起させよう。いまから十四年前の三月一日。太平洋のビキニ環礁。そこで何が起きたのかを。そして沈痛な気持で告げよう。いま、そのあかしがどこにあるのかを。
東京湾にあるゴミ捨場。人呼んで「夢の島」に、このあかしがある。それは白一色に塗りつぶされ、船名も変えられ、廃船としての運命にたえている。しかも、それは夢の島に隣接した十五号埋立地に、やがて沈められようとしている。だれもが、このあかしを忘れかけている間に。
第五福竜丸。もう一度、私たちはこの船の名を告げ合おう。そして、忘れかけている私たちのあかしを取りもどそう。原爆ドームを守った私たちの力で、この船を守ろう。
いま、すぐに私たちは語り合おう。このあかしを保存する方法について。平和を願う私たちの心を一つにするきっかけとして。
──武藤宏一(二十六歳・会社員)
一通の投書をきっかけとして、「この歴史の証人たる船を朽ちさせてはならない」の声が識者や市民たちの間から澎湃と巻き起こった。田舎の高校生だった小生ですら「朝日新聞」の報道でそのあらましをリアルタイムで知り得たほどに、これは当時の人々の間で一大関心事であったのだろう。幾多の経緯を経て、当時の東京都知事・美濃部亮吉の決断により、第五福竜丸の船体は再発見されたゆかりの地、夢の島に永久保存されることになった。
こうして「第五福竜丸展示館」は、東京都の塵芥投棄場である江東区夢の島の地に開館した。1976年のことである。友人Yが自主映画のロケハンで偶々この島を下見に訪れた、奇しくも翌年のことである。
(まだ書きかけ)