世界的に人口に膾炙したアイドルといえば、熊なら「くまプー」、鼠なら「ミッキーマウス」、兎なら「ピーター・ラビット」か「うさこちゃん(ミッフィー)」と相場が決まっていようが、牛となると議論の余地がありそうだ。
一昔前までなら「花の好きな牛」フェルジナンド(
→これ)と答えるのが正解だったろうが、さすがにその知名度にも翳りがみえてきたように思う。
そうなると、誕生から九十年近くになるというこの牛クン(正確には女性だが)に軍配が上がるのではないか。
赤い顔をして屈託なくこちらに笑いかける牝牛、すなわち "La Vache qui rit" のことである。
え? ご存じない? まさか。
これですよ。そう、フランス産のチーズのパッケージで微笑んでいるこの赤い牝牛、特に決まった名前はなくて、九十年前の昔から「笑う牝牛=ラ・ヴァッシュ・キ・リ」と呼ばれてる。創業者が高名な挿絵画家・絵本作家のバンジャマン・ラビエに頼んで図案化してもらったイメージ(
→これ)が実にもう決定的にインパクトに富んでいて、この図像が世界中で愛されるに到ったということらしい。
難点はこの牛のフランス名が発音しにくく、呼称が広まらなかったこと。英語圏では「ザ・ラッフィング・カウ The Laughing Cow」と呼び、日本でもこれに準じるのだそうだが、それほど知られてはいまい。そういえばスーパーでよく見かける「キリ kiri」という名称のクリームチーズ、あの呼称も実は「笑う牝牛=ラ・ヴァッシュ・キ・リ」に由来するようである。発売元が同じなのだ。
ところで、ラビエが創作した「笑う牝牛」には、これに先立つプロトタイプがある。
第一次大戦中にラビエ自身が(敵国ドイツを愚弄するために)拵えた「ラ・ヴァシュキリ La Wachkyrie」なるキャラクターである。綴り字からも明らかなように、これはドイツ=北欧神話のワルキューレ(Walküre/Valkyrie)のもじりであり、勇猛な戦の女神を鈍重な牝牛へと変じ、ニタニタ笑いをさせるという、底意地の悪い「おちょくりのイメージ」にほかならなかった。ラビエの描いた「La Vachkyrie≒La Vache qui rit=笑う牝牛」は軍用トラックに描かれ、あまねく世に広まったとのこと。おまけに「笑う牝牛」を標題にしたフォックストロットまでが作曲され(
→これ)、これまた大いに唄われた(らしい)。
この「笑う牝牛」に逸早く目をつけたのが酪農品製造業者レオン・ベルだった。
1921年「ラ・ヴァッシュ・キ・リ」なるチーズを発売したベルは、当初は別のマークで営業していたのだが、やがて大戦中に従軍仲間だったバンジャマン・ラビエに依頼して、今日の「笑う牝牛」の元になるトレードマークを描いてもらった。これが1925年のことだという。こうして、かつては「アンチ・ドイツ」のキャラクターに過ぎなかった「ラ・ヴァシュキリ」は、「ラ・ヴァッシュ・キ・リ」として生まれ変わり、世界の食卓のアイドルとなった。牝牛の赤い色はこのときに定まったものなのだという(以上の情報は概ねベル社のHPに拠る)。
日本ではあまり知られていないが、バンジャマン・ラビエ Benjamin Rabier(1864‐1939)は19世紀のドーミエやグランヴィルの衣鉢を継ぐ偉大なカリカチュリストであり、動物の擬人化にかけては当代随一の名手だった。とりわけ、犬猫や狐や兎や牛が屈託なく笑いこける姿を描かせたら、古今東西ちょっと並ぶ者のない腕前を発揮した。星の数ほどあるラビエの絵本の表紙からほんの少しをお目にかけよう(
→これ、
→これ、あるいは
→これ)。
どうですか、これこそがラビエの独擅場。生きとし生ける鳥獣が皆はじけるように笑う。破顔一笑する。不自然でもなんでもない、動物たちは笑うのだ、と当然のごとく誰もが信じてしまいそうになる。
これまでに出たラビエの最も包括的な研究書を紹介しておこう。
François Robichon:
Benjamin Rabier: l'homme qui fait rire les animaux
Hoëbeke
1993この本の副題が言い得て妙。"l'homme qui fait rire les animaux" すなわち「動物たちを笑わせた男」という。だから牝牛も笑うのだ。