元旦に月本夏海さんのブログ「夢で、逢いませう」を開いたら、賀状代わりに掲出された
こんな画像にいきなりガツンとやられた。
年賀状というものをここ十数年出したことがなく、今年の干支も定かでなかった当方としては心の準備ができてなくて、思わず息を呑んだ。
そうですよね、これぞまさしく丑年だなあ。やられてしまった。そもそもアルバム名「原子心母 Atom Heart Mother」が何を意味するのか、この牝牛とどこでどう繋がるのか、四十年近く経った今も謎というほかないが、そんなことはたぶんどうでもよくて、この視覚的インパクトこそがヒプノシスなのだ。
何か牛にゆかりの音楽(とそのアルバム・カヴァー)を返礼として差し上げねば、とつらつら考えるのだが、「南部牛追唄」「達者でナ」程度しか思いつかず、洋楽では幾多あるカウボーイものや闘牛士ものを除くと、案外とレパートリーは貧弱なのではないか。ダリユス・ミヨーに『屋根の上の牡牛』というバレエがあったっけ。でもアルバム・カヴァーに牛はいなかったなあ…。
牛と音楽、牛、牛、と考えあぐねていたら、たまたまTV番組に若き日の大橋巨泉が大映しになった。おお、ユーレカ! 牛といえば「牛も知ってるカウシルズ」だ! ヒット曲は「雨に消えた初恋」一曲しか思い出せないなあ。 「牛も知ってる…」の惹句はもちろん巨泉さんの創作で、たぶんフジTVの「ビートポップス」で広めたんぢゃなかったかな。ウッシッシ…という笑い声も一緒に。
閑話休題。
それから三日かけてようやくこんな「牛音楽」「牛ジャケ」をみつけた(
→これ)。
Kurt Weill:
Der Kuhhandel
(Auszüge)
Soloists, Kölner Rundfunkchor, Kölner Rundfunkorchester
Jan Latham-König, Dirigent
5-24 Mar. 1990, Studio Stolberger Strasse, Köln
Capriccio 60013-1 (1992)
1933年に辛くもドイツを脱出したクルト・ワイルは、パリを根城に舞台・映画・放送用の音楽を書いて糊口をしのいでいた。バランシンが振付師となった舞踊団「レ・バレエ1933」のためにブレヒトと組んで『小市民七つの大罪』を書き、ラディオ・パリでの放送用に音楽劇『ファントマの大いなる嘆き』を手がけ、舞台劇『マリー・ガラント』の挿入歌を作曲した。ポリニャック大公妃の依頼で第二交響曲の作曲にもいそしみながら、ルネ・クレールやジャン・コクトーとの共同作業を夢想した。
結局ワイルのこのパリ時代は慌しい過渡期でしかなく、1935年のアメリカ移住をもって締め括られることになるのだが、彼は同時にロンドンでの活躍の可能性も視野に収めていたようだ。ロンドンは当時も今もNYのブロードウェイに匹敵する世界のショービズの中心地だし、上記の「レ・バレエ1933」は実際にこの街でも興行を行っている。評判は散々だったようだけれど。
紆余曲折を経て、ワイルの新作が英都ストランド街のサヴォイ座の舞台にかかったのが1935年6月28日のこと。題名を『牝牛一頭のための王国 A Kingdom for a Cow』といった。
不評につきわずか三週間で上演打ち切りとなったこのミュージカルは、ワイルがドイツ時代の盟友でベルリンのシフバウアーダム座(『三文オペラ』の初演場所)の演出主任だったローベルト・ファンベリー(ヴァンベリー) Robert Vambery とともに構想を練っていた政治諷刺劇で、ファンベリーの台本に記された当初のドイツ語タイトルは "Kuhhandel" すなわち『牝牛の売買』といった。これはスラングで「闇取引」を意味し、英語で言うなら "Horse-Trading" にあたる語であるらしい。
長らく忘却されていたこの失敗作に光が当たったのは、初演から五十五年(ワイルの死からも四十年)経った1990年のこと。ドイツ語版オリジナルの『牝牛の売買』がデュッセルドルフの「ワイル・フェスティヴァル」で復活上演(というか、この形では世界初演)されたのである。本CDはそのときのキャストがケルンの放送局に残した抜粋録音であり、今のところCDで聴ける同曲の唯一の録音である。
久しぶりに探し出して、解説書を紐解くと、事細かにプロットが記されている。ごく掻い摘むと、カリブ海の架空の小国に、アメリカの武器商人がやってきて大統領相手に商談をふっかける。お人よしの大統領はまんまと欺かれ、国民に重税をかける。その煽りをくらって主人公の牛飼フアンは全財産である牝牛を奪われ、婚約者フアニータとも引き裂かれ…というようなお話。最後は悪徳商人は追い払われ、国には平和が戻り、フアンとフアニータはめでたく結ばれる。
まあ、世離れした牧歌的な物語とも、現実の米国の対中南米政策を諷刺した政治劇ともとれるミュージカルなのであるが、ワイルの音楽は春風駘蕩、あくまでものどかでおっとり、オッフェンバックのオペレッタの現代版を目指したと評される。
抜粋版なので、歌詞を追いながら聴いていてもストーリーは正直なところよくわからない。音楽的にもドイツ時代の「ブレヒト=ワイル」劇の先鋭さやアイロニーからは大きく後退している。むしろ後年の「ブロードウェイ時代」に繋がるような平明な旋律が頻出する。
何より吃驚するのは第一幕第四場でフアンが唄う嘆き節「おいらがこの街に来てからは Seit ich in diese Stadt gekommen」の冒頭のメロディ。な、なんと、これが「セプテンバー・ソング」と瓜二つなのである。途中から別の旋律に溶け込んでしまうけれど、始まって七、八小節はまるきりおんなじなので魂消てしまう。
最近どうやらこの『牛の売買』はウィーンのフォルクスオーパーの舞台にかかり、『武器と牝牛 Arms and the Cow』という副題附きでDVDにもなっているらしい。