(承前)
チュルリョーニスをライフワークとするリトアニアの音楽学者ランズベルギスが、永年の研究成果を凝縮する形で "M. K. Čiurlionis: Time and Content" (1992)のリトアニア語版を執筆したのは1987年だといい、その時点ではソ連邦の検閲をかい潜る必要から、ほうぼうで遠慮した書き方をせざるを得なかったらしい。
今回の日本版では、そうした箇所のすべてに改訂補筆を施した英語版が著者から送られてきたので、その「加筆完全版」を底本として翻訳がなされた。佐藤泰一さんの彫心鏤骨の訳業である。さらに本書では、原著にはないふたつの章(「チュルリョーニスと写真」および「精神」)が新たに加わった。これらはリトアニア語学の第一人者である村田郁夫さんの手により原語テクストから訳された。
ことのほか素晴らしいのは、映像作家ジョナス・メカスがこの日本語版のために一篇の頌詩を寄せて下さったことである。題して「リトアニアはチュルリョーニスである」。
「フルクサス」の創始者である故ジョージ・マチューナスは、メカスの永年にわたる盟友であるとともに、ランズベルギスとは小学生時代に机を並べた同級生(!)でもあった。まことに縁は異なものというほかないが、この不思議なえにしに導かれて、ランズベルギスはリトアニアにありながら早くから「フルクサス」の客分として遇されており、ニューヨークのメカスたちとも強い連帯感で結ばれていた。
思い返せばあの忘れがたい『リトアニアへの旅の追憶』の帰郷場面で、至福のときを静かに彩る音楽としてチュルリョーニスの前奏曲数曲が選ばれていたのだが、そこでピアノを奏でていたのがほかならぬランズベルギスその人だった。
こうしてチュルリョーニスやマチューナスを媒介として紡がれてきた同国人の友情と信頼の絆が、ここに一篇の詩となって結実したというべきであろう。絶唱ともいえるこのメカスの新作詩篇が達意の日本語(ガビヤ・ズカウスキエネさんと村田さんの共訳)で読めるという一事だけでも、本書は値千金なのだといいたい。
ヴィータウタス・ランズベルギス著
佐藤泰一訳
チュルリョーニスの時代
ヤングトゥリープレス
2008
チュルリョーニスの音楽は今はピアノ曲を中心にかなりの数のCDで聴くことができる。だが、その絵画作品については1992年にセゾン美術館で大がかりな回顧展が催された(このとき国家元首だったランズベルギスが来日した)以外は、接する機会は皆無だった。その展覧会カタログも稀覯本と化した今、本書でチュルリョーニス絵画四十点と出逢えるのは嬉しい体験だ。
世紀末のバルト海の夜空に不思議な光芒を放った天才の、あまりにも独創的な芸術と、それゆえあまりにも不遇だった生涯について、ランズベルギスほど共感と哀惜の念をもって語れる人はいない。百年前にチュルリョーニスが夢に見、予言したリトアニア文化の復権と隆盛を、自分たちの世代が受け継がねばならぬ、という強い共鳴と使命感が彼にこの本を書かせたのに違いない。先人への深い敬意と愛、鋭い洞察に溢れた稀有な一冊。音楽と美術を共に愛する人、とりわけ、チュルリョーニスの存在を知らないという人にこそ、強くお奨めしたい。
本書は新宿とお茶の水のディスクユニオン(クラシック店舗)ですでに先行発売されているほか、アマゾンでも予約注文を募っているようだ(
→ここ)。