所用から解放され、さあ新文芸坐でマキノ特集をと池袋に足を向けようとして逡巡した。映画はいつかまた観られる、でも実演は「今、ここ」だけ。そうなるともう居ても立ってもいられなくなった。地下鉄を乗り継いで今日も六本木のアークヒルズへ赴く。幸い当日券は残っていた。
19:00- サントリーホール
ワレリー・ゲルギエフ指揮
ロンドン交響楽団
ヴァイオリン/ワジム・レーピン*
セルゲイ・プロコフィエフ:
交響曲 第四番
ヴァイオリン協奏曲 第二番*
交響曲 第五番
日曜から続いたゲルギエフ&ロンドン響の「プロコフィエフ・ツィクルス」も今日が最終日。これまでの出来映えから、聴き逃すのが口惜しくなったのだ。結局、全五日のうち四日分を耳にすることとなったが、それもこれも、小生が感じるプロコフィエフとの不思議な縁(えにし)のなせる業だろう。
冒頭の「第四」はとんと馴染がない。ネーメ・ヤルヴィ指揮のCDも殆ど聴いていない。バレエ『放蕩息子』の音楽からの転用なのでほうぼう聴き憶えがあるが、シンフォニーとしての訴求力に欠け、単調さは否めない。平明で綺麗な音楽ではあるのだが、グラズノーフの多くの交響曲がそうであるように「形」に捉われ過ぎて拵えものに堕した感がある。後年になって作曲者自身が大幅に改訂したのもむべなるかな。
第二協奏曲は名作だ。ただしディスクを通して古今の名演に接してしまっているので、ちょっとやそっとのことでは感動できない。ソロイストは火曜日に聴いたのと同じレーピンだが、そのときの第一番と同様、美しくはあるが細く素っ気ない音色が楽曲と違和感を醸す。おまけに今日は不調なのか、ほうぼうで音程が外れがちだ。とはいえ、第二楽章のクールな味わいに彼の美質が窺えた。ゲルギエフの伴奏はたいそうきめ細かく丁寧。
終了後のアンコールでは、レーピンとLSOコンサートマスター(Andrew Haveron)とが譜面を見ながら二重奏。聴き馴れない曲だが、はああ、これはプロコフィエフの「二挺のヴァイオリンのためのソナタ」の楽章なのだな、と気づく。なかなかに味な真似をしてくれる。
休憩後はいよいよ本ツィクルスの棹尾を飾るべき第五交響曲だ。
プロコフィエフの全交響曲中でこの「第五」が最も演奏頻度が高いのは何故なのか。初演から間もなくクーセヴィツキー、ミトロプロスが指揮し、ほどなくセル、ライナー、アンセルメ、カラヤンが申し合わせたかのようにレパートリーに組み込んだ。20世紀のシンフォニーには例のない(反時代的ともいうべき)安定した古典的書法が愛好されたということだろう。反面、凡庸な指揮者の手にかかると、形骸化したアカデミックな音楽に聴こえかねない。難しい曲なのだ。
さすがにゲルギエフはプロコフィエフを知り尽くしている。この曲の古典的な枠組を尊重したうえで、きめ細やかな指示を出しつつ、各奏者から音楽的なパッセージを最大限に引き出し、豊かな歌と表情で満たしていく。ツィクルスの最終曲目ということもあって、フルートもクラリネットもオーボエも首席奏者がずらり勢揃いし、惚れ惚れするようなソロとアンサンブルの妙を聴かせる(第二楽章冒頭のクラリネット主題の絶妙な奏され方といったら!)。ディスクで聴くカラヤン&ベルリン・フィル、ミトロプロス&ウィーン・フィルの秀逸な演奏すらも軽々と凌駕した、この曲の正攻法にして最上の名演を目の当たりにした思い。
心ゆくまでプロコフィエフを堪能した。久しぶりに「ブラヴォ」を叫ぶ。これ以上の演奏に果たして出逢えるだろうか。
アンコールは『ロミオとジュリエット』から「仮面」。さりげなく、余韻とともに静かに消えゆく。