文章書きとして何が腹立たしいかって、怠慢で鈍感な編集者と遭遇してしまったときほどムカつくことはない。
先般『ユーラシア研究』という雑誌に「初めて日本語になったロシア絵本」なる標題で寄稿したのだが、その編集実務を委託された別組織である東洋書店編集部から著者校正が送られてきた。封入された依頼状には「10月14日」の日付が記されていたが、拙宅の郵便受に届いたのはようやく17日(金)。
ところが文面には「ご返却期限 10月20日(月)必着でお願いいたします」とあって、返信用封筒が同封されていた。
これがまずどうかしている。間に週末が挟まっていて、それで間に合わせろというのか。翌土曜日に投函して、はたして月曜に必着するという保証はない。しかも返信用封筒は速達になっていないのだ。
原稿執筆後、『ユーラシア研究』編集部からは、「原稿がかなりはみ出しているので、図版を減らすか、文章を刈り込むかしてほしい」という要請があったので、当初予定していた図版六点を四点に減らすことを決断した。それでもまだはみ出すようなら文章カットもやむなしと待機していたのだが、その後は音沙汰のないまま一か月が経過した。
そこにきて、まるきり面識のない東洋書店の「編集担当・武藤」なる者からいきなり届いたのがこの校正刷である。案の定、六ページの紙数に収まらず、二十四行分が七ページ目に溢れ出てしまっている。
二十四行を刈り込むのは容易な作業ではない。どこかをバッサリ切るというわけにはいかない。論旨が崩れてしまうからだ。したがって、全部の文章に隈なく目を光らせ、簡潔な言い回しに変更したり、重複を省いたり、苦労惨憺してようやく三十行ほど短縮した。内容そのものが弱体化せぬよう、また文意がちゃんと通るよう、時間をかけて細心の注意を払った。
その際、仔細に点検したので、入稿時に拙文がきちんと読まれておらず、ぞんざいな扱いをされたことがありありとわかる。小生自身もまた編集者なので、先方の力量ややる気の有無は先刻お見通しなのである。
もう郵送では間に合わない。FAXという手もあるが、いくつかの点で編集部とよく話し合う必要があるので、先方の指定日である10月20日、すなわち今日の朝、同封された依頼状に記された電話番号にかけてみて吃驚。「この電話は現在は使用されていません」ときた!
一体全体どうなっちゃってるのだ。仕方なくHPで調べてみたら、依頼状に記された電話番号は間違っているではないか。この東洋書店の「編集担当・武藤」氏はよほどの粗忽者か、なりたての新人に違いない。
判明した番号に電話してみると、別人が出て、「武藤という者は社員ではなくフリーの編集者、今日は出社するかどうかわからない」という。これには耳を疑わずにはいられなかった。先方が指定したゲラの「ご返却期限」の、今日はその当日だというのに、担当者が不在だとはどういうことなのだ。腹立たしいので、その「武藤」氏の携帯番号を教えてもらい、かけてみたら繋がらない。再度、編集部に電話して、自宅の電話番号にかけて、ようやく本人がつかまった。
いつ発送したのか尋ねると、「15日に投函したと思う」とのこと。やはり到着まで中一日かかっている。これでは「20日必着」はそもそも無理な相談であろう。当方からは、先週末ギリギリに校正刷が届いたこと、大幅なはみ出しなので、じかに会って対応策を確認したい、と申し出るのだが、寝呆けているのか、当事者意識に欠けるのか、話がまるで要領を得ない。それもそのはず、その「武藤」氏はゲラを編集部に置いてきてしまい、埼玉の自宅には何も持ち帰っていないというのである。
思わず「あなたは編集者として駆け出しなのですか、ヴェテランなのですか?」と尋ねてしまった。返答は「かなり長くやっています」という返答。そうか、新人でないのだな、ということは…わかった。もうこの人物は頼りにならない。
とても嫌そうな口振りだったが、明日この「武藤」氏と直接会って修正箇所(九十か所)を説明することにした。でも彼はきっとゲラ戻しで新たな転記ミスを犯すことであろう(なにしろ自社の電話番号すら誤記するのだ)。だから「再校時に必ず著者校正をもう一度行うこと」を強く要請した(さもなくば原稿を引き上げる)。誤記や誤植が生ずれば、責任は執筆者が負わなければならないからだ。ボンクラで怠慢な編集者は名前が出ないから、知らん顔で高鼾なのである。
最後に付言するならば、今回の執筆では、原稿を依頼してきた人物(『ユーラシア研究』編集委員)と、受け取った人物(同誌の編集部)と、実際に編集作業に携わる者(くだんの「武藤」氏)とが全部異なっていて、そのあたりにもこうした不手際が生じる原因が潜んでいるのだと思う。
腹立ちついでに書いてしまうが、今回の稿料は四百字詰め原稿用紙二十五枚書いて、たしか一万円だと思う。つまり原稿用紙一枚あたり400円。1字1円である。それでも寄稿の意義を認めて、寸暇を惜しんで無い知恵を絞って書いているのだ。
「もっと金をよこせ!」などとは口が裂けても言うまい。稿料はタダでもいいのだ。そのかわり、せめて編集者としての誠意と情熱を示せ、最低限の礼儀をわきまえよ、と言いたいのだ。それが稿料の安さを埋め合わせて余りある。著者は編集者と共同作業をしているのだから。