自宅で好きな映画をいつでも観られるような時代が来るとは思いもよらなかった。
映画とはたまさか上映される機会を逃さずに、その時刻、その場所に、万難を排して赴いた者のみが享受できる悦びだと信じていた。そもそも映像そのものをコレクションとして「所有」できる、という発想自体に、どうしても馴染むことができずにいる。
もちろん、憧れの映画をいつも身近に感じていたい、せめてその片鱗だけでも手許に置きたいという願望は昔からずっとあった。
先日亡くなったシドニー・ポラック監督の『ひとりぼっちの青春』(1969)はまさにそうした一本であり、滅多に観ることの叶わぬ鍾愛のフィルムを思い出す「よすが」がどうしても欲しくて、上映時にこっそりカセット録音するという「暴挙」に出たこともあった(大塚名画座さん、お赦しを!)。もっとも、この映画の場合、激しいマラソンダンスの場面ばかり続き、もっぱら苦しい息遣いに終始し、さしたる台詞もないこの映画を、音だけ聴いて偲ぶのは至難の業であったが。
愛おしい映画を思い出して懐かしむ最もてっとり早い媒体といえば、まずは写真を満載したパンフレットということになろう。
ところが『ひとりぼっちの青春』の場合、その痛烈陰惨な内容ゆえに、きちんとしたロードショーもなしに、「二番館で二本立の添え物」(エリザベス・テーラー主演『クレオパトラ』と抱き合わせ!)という不幸な公開のされ方をしたため、パンフレットは制作されなかったとおぼしい。少なくとも小生は見たためしがない。
上野で路上アルバイトをしていた頃、線路脇にあった「蓄晃堂」といったか、小さな中古レコード店で、思いもよらず『ひとりぼっちの青春 They Shoot Horses, Don't They?』のサントラ盤LP(米盤)を600円で手に入れて、文字どおり狂喜乱舞した。もう三十年以上も前のことなのに、つい先日のように思い出す。
邦画上映で知られた銀座の名画座「並木座」で旧作ポスターのバーゲンをやっていて、どういうわけか『ひとりぼっちの青春』日本公開時のポスターを100円で見つけた。このときも躍り上ったものだ。さっそく阿佐ヶ谷の六畳一間の下宿に貼って悦に入った。ジェーン・フォンダの物憂げで不敵な横顔を、朝な夕なに拝んで暮らした。
誰だったか、下宿を訪ねてきた友人が、「同じポスターをオックスフォードの下宿に貼っている日本人がいるぞ」と教えてくれた。それがなんと留学中の浩宮だというから驚きだ。彼は一体どこでこの「呪われた傑作」と出逢ったのであろうか。
もうひとつ、忘れてならぬスーヴニールにスチル写真がある。
ヴィデオやDVDが出現するまでは、これが「映画の実体に最も近い存在」だったような気がする。今どきの映画ファンは見向きもすまいが、われわれまでの世代にとって、好きな映画のスチルは聖遺物さながら。なぜなら、それは確実に映画の「一部分」と信じられたからだ。あれはトリュフォー監督の『アメリカの夜』だったか、少年が映画館で憧れのスチル写真を盗むシーンがあったと記憶する。あるいは『大人は判ってくれない』だったか。映画ファンはいずこも同じだなあとつくづく思ったものだ。
閑話休題。どうしてこんな話題になったかといえば、つい先ほどネットオークションで落札した『ひとりぼっちの青春』のスチル写真(四枚/たとえば
→これ)が届いたからなのだ。全くもって病膏肓に入るとはこのことである。