さしもの猛暑にもようやく翳りがみえてきた。しばらくご無沙汰していた。
さて当方は相も変わらぬ日常である。
昨日は締切間近の原稿を抱えて青息吐息。午前中、執筆が思いのほか捗って、さあ残りを夕方までに仕上げてしまおうと思った矢先、セルゲイ・パラジャーノフ監督作品『ざくろの色』の上映がある、との情報が飛び込んできた。これが本邦最終上映かもしれない、とのこと。
そうと知ったらもう居ても立ってもいられなくなった。
とるものもとりあえず、という感じで、普段着のまま髭も剃らずにボサボサ頭で家を飛び出し、渋谷(というか青山)の「シアター・イメージフォーラム」へ。
土砂降りの雨のなか、夕刻七時過ぎからの最終回。
この映画を観たのは1991年5月のこと。今は亡き「六本木シネヴィヴァン」での上映、と手許の記録にある。それ以来ずっと接する機会がなく細部の記憶はもう朧げだが、「めくるめく禁断の世界を垣間見た」という実感が生々しく残っている。
パラジャーノフ作品は今やDVDで容易に観られる。本作も例外ではないのだが、小生のような昔気質の人間はどうしてもスクリーンで観ないと承服できない。ましてや「本邦最終上映」となると、これはもう駆けつけずにはいられまい。
さすがに十七年を経たプリントは相当に色褪せていて、光彩陸離とは参らぬが、それでもパラジャーノフの破天荒な幻想世界を伝えるには充分だ。
18世紀に実在したアルメニアの宮廷詩人サヤト・ノヴァの数奇な生涯に仮託した映像詩、とでもいおうか。宗教典礼のように極度に様式化された仕草と、平明でいながら謎めいた語り口。台詞らしい台詞もなく、登場人物は黙劇か活人画さながら、表情も内面も窺わせない。
パラジャーノフの演出は精緻にして老獪、それでいて少年か乙女のような純情と無垢な輝きを放つ。見事に一貫したスタイルに舌を巻くばかり。ルイス・ブニュエルとの類似は誰の目にも明らかだが、果たしてこれは影響と呼べるのか、それとも偶然にも似通ってしまった結果なのか。
ソ連体制下でこれだけ自由奔放なファンタジーが撮れたのは奇跡に近い。とはいえ、私たちが今こうして目にする『ざくろの色』は、検閲によって改編を余儀なくされ、別人の手で再編集された短縮版なのだという。このあと、度重なる投獄で映画製作の機会を奪われたパラジャーノフは、生涯でわずか四本の長篇しか撮れなかった。
本作の音楽をアルメニアの作曲家ティグラン・マンスリアン Tigran Mansurian が手がけている。その事実に遅まきながら今ようやく気づいた。民族音楽がそのまま用いられているようにも聴こえるが、ともあれ映像との相互浸透性は抜群で、それゆえ音楽だけを採り出して云々するのが愚かしく感じられるほどだ。
陶酔と眩惑の七十三分が瞬く間に過ぎて、夢うつつのまま外へ出ると、先ほどの驟雨は嘘のように上がって、夏の宵とは思えぬ冷気がひやりと肌に触れた。